同じころ、青森県庁の一室です。
太宰治の兄、津島文治知事が
緊急に役人を呼び出しました。
来年は、十和田湖が、国立公園に指定されて
ちょうど十五周年だ。
十周年の時には、戦争が終わったばかりで、
何もできなかったが
今度は、きちんと記念事業を、やりたい。
戦争のきずあとから
復興したという、あかしにもなります。
そこで、
十和田湖の美しさを、世の中に広く紹介して下さった
大町桂月先生
それから
道路の整備等に、骨を折って下さった
元知事の、武田千代三郎さん
同じく、地元の村長だった、小笠原耕一さん。
この三人の功績をたたえるものを、作ろうと思う。
しかし、ただ、地味な石碑とかを作るのも、能がない。
もっと、何というか
十和田湖のシンボルになるような
そんなものを、誰か、有名な芸術家にたのんで
作ってもらおうと思うんだが…。
いいですね。
あらたな観光名所になりますよ。
ところが、日本中を調べても
こういうことの例が、ほとんどない。
いったい、どんなことをやったらいいのか
作るとしたら、どんなものを作ったらいいのか、
それから、誰に頼めばいいか、など、
さっぱりわからない。
わかりました。
さっそく、いろいろな方面に、相談してみましょう。
地元のことにくわしい、会社や銀行の経営者。
そういうことなら
高村光太郎先生にお願いするのが、いいでしょう。
長野県に作られた、小説家の島崎藤村を記念する
「藤村記念堂」を設計した、建築家の谷口吉郎。
今、日本で一番の彫刻家と言ったら、高村先生です。
県立三本木高校の校歌を作詞した、佐藤春夫。
高村さんに、何か作ってもらえるなら
それは本当に
十和田湖の、いや、日本の宝になりますよ。
みな、一様に、光太郎の名をあげたのです。
とくに、佐藤春夫は光太郎と親しく
智恵子が元気だった頃、光太郎のアトリエに
よく遊びに行ったりしていたので
強く光太郎を推薦しました。
しかし、近ごろの光太郎の様子を聞いていた春夫は
不安も感じていました。
だが、引き受けてくれるだろうか?
よし、高村さんに手紙を書こう。
佐藤春夫の書いた手紙を持って、
光太郎や心平と親交のあった
詩人の藤島宇内、谷口、
そして青森県の役人は
光太郎の小屋に行きました。
意外な話に、光太郎は、とまどいました。
自然美には、人工を受けいれるものと、
受け入れないものの、2つがある。
ともかく、十和田湖がどんなところなのか
この目で見ないことには…。
こうして、光太郎は、十和田湖に下見に行きました。
穏やかな湖面を、まるで滑るように、
ゆっくりと、船が進んでいきます。
船の上から見える、湖畔の原生林に
光太郎の目は釘付けになっています。
なんと素晴らしい眺めだ。
ここになら、彫刻をおいてもおかしくない。
ゆく手の水面は、よく晴れた日の光を反射して
きらきらと輝いています。
風が気持ちいい。
お世辞ではなく
みんなが、ここにつくる彫刻は
僕のものでなければ、と言ってくれている。
ここはひとつ、みんなのためにも、がんばろう。
戦争中の罪が許されたわけではないが…。
光太郎は船のデッキから、湖の水面に目を移しました。
透明度の高い、きれいな水のために
浅いところでは
魚が泳ぎ回る水そこまで、くっきりと見えます。
光太郎は、すっかり、十和田湖が好きになりました。
さらに真下を向くと、まるで鏡のように
水面に、光太郎自身の顔がうつっています。
こうしてみると、影と形のようだ。
それにしても、僕も、年をとったものだ。
( 咳 )ゴホ ゴホ
光太郎の体は、智恵子と同じ結核におかされていました。
残された時間も、あまりない。
その日の夜、湖畔の旅館で
光太郎を囲んでの、宴会が開かれました。
津島知事や県の役人にまじって
春夫、心平、谷口、藤島、
彫刻家の菊池一雄
みんな、光太郎を説得するために
東京からやってきたのです。
高村先生、いかがでしたか、十和田湖は。
すばらしいところですね。
ここになら、彫刻を作ってみたいと、思いました。
本当ですか!
ありがとうございます!
そうと決まれば
みんなで手分けして、先生のお手伝いをしよう。
おう!
宴会も終わり、光太郎は一人
廊下の窓から、月がうつる湖面を見つめていました。
ん?
すると、水面にうつっていた月が
いつの間にか、ゆらゆらと形を変え
人の形になって、湖からとびだしてきました。
智恵さん!
光太郎さん…
あなたは、十分、罰を受けました。
もういいでしょう。
ここに、私を作ってください。
智恵さん
僕も、そう思っていたところだよ。
この十和田湖に、智恵子観音を作ろう。
ありがとう。光太郎さん…。
智恵子は、やさしくほほえむと
また湖に、もどっていきました。
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