隆君、帰ってきたよ
先生!
太田村の山小屋。
隆が光太郎に抱きついて、涙を流しています。
しかし…、
これは、駄目です。
高村先生、
東京の、設備がととのった病院で、みてもらわないと…。
花巻から診察に来た医師が、
聴診器を外しながら、言いました。
光太郎も、そのことは、十分に分かっているようです。
それでも、隆との約束を、果たすため、
こうして太田村に、帰ってきたのです。
隆君、すまないね。
いいよ、いいよ、約束を守って、
一回、帰ってきてくれたんだから…。
東京さ、行って、しっかり病気を、なおしてけろ。
隆は、涙目になりながらも、明るく言いました。
光太郎は、三たび、東京の人となり、
また、中野のアトリエでの生活がはじまりました。
次の製作にも取りかかったのですが、
やはり体調が思わしくなく、
ベッドで寝ていることが、多くなりました。
そんな、ある朝…。
今朝は、お顔の色つやがよろしいようですね。
ああ、奥さん、
ありがとう。
光太郎は、中西夫人のついでくれた
コップの水を、おいしそうに飲みほしました。
あの花は、なんという名前ですか?
アトリエの庭には、背丈の低い木に、
小さい黄色い花が、たくさん咲いています。
あれは、『連翹』といいます。
そうですか。
実に、かわいらしい花ですね。
( 咳 )ゴホゴホ
智恵さんが好きだった、
レモンのような色だな…。
光太郎は、せきこみながら、考えていました。
昭和31年(1956年)4月2日
まだ、夜明け前です。
アトリエで、光太郎が、ベッドに寝かされています。
口には、酸素のマスク。
枕元で、医師が、光太郎の脈を調べています。
いよいよ、最期の時が、せまってきたようです。
智恵さん…。
もうろうとする意識の中で、光太郎が、ふと、横を見ると、
そこには、やさしくほほえむ智恵子の姿。
むかえに来てくれたんだね…。
智恵子はゆっくりとうなずくと、
手をさしのべてきました。
光太郎は、その手をしっかりと握りしめました。
こうして光太郎は、智恵子とともに、旅立ちました。
"昭和31年(1956年)4月2日
高村光太郎 死去 73歳"
前の日から、東京は、季節はずれの大雪に、
すっぽりとつつまれていました。
光太郎のお葬式では、柩の上に、
光太郎が『かわいらしい』と言った、
アトリエの庭に咲いていた連翹の花が一枝、
コップに入れられて、飾られました。
何年かが、たちました。
心平は、ふと、思い立って
十和田湖にやってきました。
秋の紅葉シーズンです。
修学旅行でしょうか、
学生服とセーラー服に身をつつんだ、
中学生くらいの少年少女たちが、
バスガイドさんの後を付いて、歩いています。
心平も、そのあとに続いて、
裸婦像のある湖畔までの道を、歩いていきます。
この像は、先ごろ亡くなった、
高村光太郎先生の、最後の大作です。
地元では、除幕されて間もなく、
だれが言いはじめるともなく、
『みちのく』や、『乙女の像』という愛称で
呼ばれるようになりました。
この顔は、『智恵子抄』で有名な、
智恵子夫人の面影を、つたえていると、いわれています。
心平は一人たたずみ、十和田湖を見つめていました。
高村さん…。
今頃は、智恵子さんと、仲良く、
製作にはげんでいるんでしょうね…。
心平は、もう一度、像を見上げました。
そして、光太郎が亡くなる少し前、自分で作った詩を、
朗読してくれたことを思い出していました。
その詩は、『乙女の像』のために作られた詩でした。
「十和田湖畔の裸像に与う」
銅とスズとの合金が立っている。
どんな造形が行われようと
無機質の図形にはちがいがない。
はらわたや 粘液や 脂や 汗や 生きものの
きたならしさは ここにない。
すさまじい 十和田湖の 円錐空間に はまりこんで
天然四元の 平手打ちを まともに うける
銅と スズとの 合金で 出来た
女の裸像が二人
影と形のようにたっている
いさぎよい 非情の金属が 青く さびて
地上に 割れて くずれるまで
この 原始林の 圧力に 堪えて
立つなら 幾千年でも 黙って 立ってろ。