青森県の概要
青森県は、本州の北端に位置し,面積は約9,605㎢ 、推計人口は120 万2,030人(2022年1月)です。東は太平洋・西は日本海に面しています。下北・津軽両半島が陸奥湾を抱いて津軽海峡を挟んで北海道と相対しており、中央部を奥羽山脈と那須火山帯が走り、八甲田山と十和田湖 (十和田八幡平国立公園の一部) を境に、南部地域(県南・下北)と津軽地域とにわかれています。
冷涼で短い夏、寒冷で長い冬が青森県の気候の特徴で、日本海側は、北西季節風が強く降雪量が多く、太平洋側は晴天寡雪でありますが、春から夏にかけての偏東風が農作物に影響を与え、たびたび凶作・冷害をもたらす事があります。(偏東風は津軽半島の陸奥湾岸にも影響する)。南部地域には、岩手県から流れる馬淵川流域の三戸郡と八戸市、十和田湖に源をもつ奥入瀬川流域と小川原湖、三本木原台地を含む上北郡、十和田市、三沢市があり、その北に下北郡とむつ市があります。この地域は、江戸時代の盛岡南部藩(大南部)と八戸南部藩(小南部)の支配に属し、中心は工業と漁業の八戸市です。
岩木山がそびえ, 岩木川が潤す津軽平野は、稲作が中心であり、明治以降はリンゴが特産物となりました。 東・西・南・北・中津軽の5郡と青森・弘前・五所川原・黒石市があり、東津軽郡と青森市を除く地域の中心は、津軽藩の旧城下町弘前市です。 南部と津軽地域の接点にあたる青森市 (もと津軽藩の外港) は、陸奥湾に面した青森平野に位置し、JR 東北・奥羽本線と青函海底トンネルによる津軽海峡線(1988年3月青函連絡船廃止) の接点となっています。 また国道4号線・7号線が県庁前で合するほかに、東北自動車道の終点、北海道と結ぶフェリーの基地もある政治・経済・交通都市となっています。
縄文時代 から 古墳時代
青森県で旧石器の存在が初めて確認されたのは、昭和34年(1959年)の岩木山北東麓の弘前市大森勝山遺跡です。その後、野辺地町長者久保遺跡・外ヶ浜町大平山元遺跡など、約30ヵ所で、後期旧石器時代の遺物が確認されます。東通村物見台遺跡や大平山元I遺跡からの出土品は、津軽海峡成立期のものとも推測され, 北海道と本州との交流が考えられています。縄文時代の遺跡は青森県にきわめて多くなっており、草創期のものは、大平山元I遺跡・長者久保遺跡。その他では、早期のもので、八戸市日計・白浜遺跡など南部地方に多く、土器は尖底深鉢型が特徴です。また、長七谷地遺跡・赤御堂貝塚(八戸市)や下田代納屋遺跡(東通村)などでは竪穴住居跡も確認されています。
前期は円筒下層式土器が発達し、多くの植物繊維がみられ、代表的な遺跡として、一王寺遺跡 (八戸市)・女館貝塚(むつ市)・熊沢遺跡(青森市)・オセドウ貝塚 (五所川原市)・石神遺跡(森田村)などがあります。
中期の装飾的土器は, 前半に円筒上層式土器が発展し、その後に大木系土器文化が出現します。 この時期の遺跡は、規模も大きくなり、数も多く、三内丸山遺跡・近野遺跡(青森市)や、山崎遺跡(今別町) ・ 二ツ森貝塚 (天間林村)・石神遺跡などがその例となっています。
後期の土器は、壺型 浅鉢型口土器・香炉型土器など形態が 多様化する。 石器や土偶・土製品も増加し、環状列石などの祭祀的構築物もみられ、この時期の遺跡は、県内各地にみられ、 竪穴住居が円形プランになっている十腰内 I 式期のものが多いのが特徴です。また、青森県の特色とされる甕棺葬 (洗骨した人骨を大型の甕に改葬する)は、青森市山野峠遺跡・平賀町堀合1号遺跡などから発見されています。
晩期の土器は、大洞式土器 (岩手県大船渡市) と呼ばれており、代表的なものとして、つがる市亀ヶ岡遺跡(国史跡) 出土のものが広く知られ、一般には 「亀ヶ岡式土器」 と呼ばれます。甕・壺・鉢・皿のほか急須型土器・高坏・香炉型土器などが出土し、遮光器土偶、その他で知られています。(出土品の多くは重要文化財や県重宝)
八戸市是川遺跡(国史跡)からは、弓・櫛・腕輪・籃胎漆器など漆や朱を塗った木製品が多く出土しています。 大森勝山遺跡 (弘前市)では大型の竪穴住居跡、小牧野遺跡 (青森市)ではストーンサークルも検出され、縄文晩期終末期に弥生文化の影響をうけたとみられるのが砂沢遺跡 (弘前市)、管玉などのほかに籾の圧痕がついた土器片が発掘されます。痕のついた土器は、八戸市名川にある剣吉遺跡、八戸市堀田遺跡などでも発見されています。弥生前期では、瀬野遺跡 (脇野沢村)で籾痕をもつ土器が出土され、ここでは北海道の続縄文文化である恵山文化と関連する石器も使用されています。
弥生中期には、稲作の証拠がみられます。 昭和33年(1958年)に、200粒以上の焼米と籾痕のついた土器が発見された田舎館村垂柳遺跡で、昭和56年(1981年)に水田跡が発見されます。その後の調査で、方形に区画された1辺3〜4mの水田656枚が確認、昭和63年(1988年)に木製品の一部も検出され、同年に砂沢遺跡でも水田跡が確認されました。
弥生後期の土器としては、脇野沢村外崎沢遺跡や東通村念仏間遺跡の磨消縄文土器やその他がありますが、その編年や実年代などは不明となっています。
青森県には古墳時代の古墳は分布せず、青森市細越や天間林村森ヶ沢遺跡などから土師器・須恵器が発見されています。むしろこの時期には、北海道を主とする続縄文式土器の南下がみられます。この形式は、県下で20ヵ所以上の遺跡が発見されています。
八戸市根城の鹿島沢古墳群 (小円墳群)からは、鉄製の刀や土師器・須恵器や金銅製杏葉・玉類が発見されていますが、これは8世紀末か9世紀前半の造営と考えられています。昭和62年(1987年)に、八戸市丹後平遺跡古墳群(24基の円墳) が発見され、直刀や蕨手刀その他が出土し、特に獅噛式三累環頭柄頭の太刀が注目されています。7世紀末~8世紀前半のものと思われていますが詳細は不明となっています。
飛鳥時代 から 平安時代
古代の青森県は蝦夷の社会でした。『日本書紀』には、「斉明天皇元年(655年)に難波宮で津刈の蝦夷6人に冠位を授けた」とあり、津刈 (津軽) の地名が初めて正史に登場します。 同4年以後の阿倍比羅夫の征夷の記事に関連して、郡領を定め、有間浜で蝦夷たちを大いにもてなしたり、津軽郡の大領・少領に位階を授けました。これは越の国守阿倍比羅夫将軍に直属する家来の郡領ということであり、津軽郡は越国津軽郡ということになると推測できます。また、同書同5年7月3日条に引用されている 「伊吉連博徳書」に津加留の地名を冠した蝦夷がいたことがわかります。
『続日本紀』養老4 年(720年)の記事に、渡島津軽の津司諸君鞍男(もろのきみくらお)ら6人を靺鞨(まっかつ)国に派遣したことがわかりますが、この後は『日本後紀』弘仁5 (814年)年11月17日条の狭俘(てきふ)、元慶2年(878年) の元慶の乱を記した「三代実録』の津軽夷俘(いふ)まで正史には津軽は出てきません。
この時期は考古学的に、第1型式の土師器が使用されており、鉄斧・蕨手刀なども出土しているいます。また、黒石市浅瀬石遺跡 尾上町李 II遺跡、東北町松原遺跡などで、小集落の形成を思わせる方形竪穴住居跡が発掘されています。
奈良時代の東北地方は、陸奥国・出羽国の成立によって、多賀城・出羽柵を拠点として南部からしだいに律令制に組み込まれ、青森県の蝦夷のなかにも中央政府と朝貢関係を結んで俘囚が成長していたと考えられています。
延暦15年(796年)に陸奥出羽按察使・陸奥守、翌年征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は、延暦21年(802年)に鎮守府を多賀城から胆沢城に進めて、爾薩体・閉伊地方の平定をはかり爾薩体は岩手県北部から本県南部にかけての地域とされています。県内に田村麻呂創建とする神社や、田村麻呂にまつわる伝承は多いのですが、彼が本県領域に入った確実な証拠はありません。弘仁2年(811年)に、征夷大将軍文室綿麻呂が、志波城を拠点として爾薩体・閉伊地方を平定します。その際に都母の地名が史書に出てきますが、現在の天間林村がその地であるともいわれています。
出羽国では、元慶2年(878年) に、渡島の蝦夷が秋田城などを襲う元慶の乱が起きています。このとき津軽の蝦夷は「津軽の夷俘、其の党種多くして幾千人なるを知らず (中略) 若し逆賊に招かば、其の鋒当り難し」 (『三代実録』) と記されています。
9~10世紀の青森県では、第2型式の土師器が盛行していましたが、青森県独得のものとして把手付鉢形土器があげられます。鉄器も多く、鏃(やじり)・鐔(つば)・小札(こざね)(鎧)などの武具が工具とともに出土しています。これらの鉄器は砂鉄を原料とした可能性が強く、岩木山北麓で製鉄遺跡が発見され、五所川原市前田野目遺跡などでは須恵器(すえき)の登り窯が確認されています。
土師器に「田」「幸」などの文字が墨書されている例があり、須恵器の破片を利用した硯(すずり)も出土し、文字の使用が認められています。 なかには「大仏」「寺」の文字があり、仏教思想の流入もうかがわれます。
この時期の遺跡は青森県内全域に多数存在しますが、竪穴住居群が空堀で区画された館(たて)のなかにある例があります。 青森市近野遺跡では、61戸の竪穴住居跡が発見され、大きな集落の存在を示しています。この頃には、北海道を主体とする擦文式土器が南下しており、青森県では土師器と重なり合っており、県内一円には館が分布し、約400戸が確認されています。蓬田村の大館(幅6m以上の堀で囲まれた70m四方の大きな郭がある)は、平安時代後期のものと考えられ、有力な豪族が定着していたものと判断されます。
元慶の乱の後、東北地方は平穏でしたが、永承6年(1051年)からの前九年の役、永保3年(1083年)からの後三年の役によって動乱の時代に入ります。その過程で成長したのが、平泉の藤原氏でした。平泉政権が青森県域 (特に糠部~南部地方)を支配下に入れたとする証拠はありませんが, 『吾妻鏡』 文治5年(1189年)9月17日条に、藤原清衡 が「白河関から外ヶ浜までの二十余日の行程の道筋に、一町ごとに笠卒都婆を立てた」とあります。
鎌倉時代 から 室町時代
文治5年(1189年)の奥州合戦の後, 鎌倉幕府は奥州総奉行葛西清重と伊沢家景に陸奥国全体を支配させます。青森県全域が北条氏得宗領に組み込まれたのは13世紀中〜後期とみられています。現在確認できる地頭代と得宗領は、安藤氏・工藤氏 (津軽鼻和郡)、曽我氏・平氏・片穂氏 (津軽平賀郡)、結城氏・工藤氏(津軽田舎郡)、南部地方糠部郡の横溝氏・平氏、工藤氏、結城氏などでした。弘前市長勝寺にある「嘉元四年(1306年)」の刻銘のある銅鐘(国重文) には、14世紀初頭の得宗被官の名が列記されています。南部・津軽ともに北条時頼の廻国伝説もあり、本県の中世が鎌倉幕府の動きと密接に結びついていたことが知られています。
地頭代に任命された武士団のなかで注目されるのが安藤氏(安東とも書くが、文書では安藤)です。系譜では発祥を安倍貞任に求めていますが、土着の豪族であったと考えられています。奥州合戦後の大河兼任の乱で、幕府軍の山案内を務めた安藤次が, 津軽守護人蝦夷管領となる安藤 (安東) 氏と考えられています。同氏は津軽平野の中心、藤崎を拠点とし、岩木川水運を利用して13世紀前半には十三湊に進出したといいます。鎌倉時代初めに「東夷ノ堅メ」「夷島の押え」として安藤太 (五郎)を津軽に置いたのが蝦夷管領の始まりとされています。幕府は、津軽を含めた北辺の蝦夷全体を統轄するものとして蝦夷管領職を任命したのであり、安藤氏は特異な性格をもっていたといえます。 安藤氏は、海上交通で活躍し、若狭 (福井県)あたりまで往来しました。
北海道から東北地方北部に広がった擦文式文化は、津軽半島・下 北半島・津軽地方の西海岸の遺跡で認められています。アイヌ独特のチャシ(館)も青森県にあり、安藤氏の拠点といわれる福島城 (市浦)もチャシの特徴をもっています。 青森市後潟の尻八館(安藤氏関係と推定)では、青磁の香炉や中国銭なども出土しています。
13世紀中頃〜15世紀初頭の板碑(板石塔婆)が、津軽地方、特に津軽平野中央・南部および西海岸に多く分布しています。板碑は関東地方に多く、天台宗の布教と関連して追善や供養のために建てられました。得宗領の地頭代として下向した人々と関連が推測されます。
陸奥国は早くから馬産地として知られ、糠部地方に一戸から九戸までの九部(戸)制と東・西・南・北の四門制があったとされています。奥州合戦の功によって南部光行が糠部に入ったといわれ、南部氏は甲斐源氏の一族です。南部光行の子、南部実長が波木井郷(現在の南巨摩郡身延町梅平一帯)にいて牧監であったというから、馬産と深い関係があったと考えられています。
鎌倉時代末期に、安藤氏の内紛に端を発したいわゆる 「津軽大乱」が起こり、この事件は蝦夷管領職をめぐる惣領家と庶子家の争いですが、再度にわたる幕府軍の派遣によってようやく鎮まりました。
建武の新政によって、元弘3年(1333年)に義良親王を奉じた陸奥守北畠顕家が、奥州に下向し、翌年多賀の国府が再興されます。糠部地方には南部氏が顕家の国代として入部し、津軽では曽我氏が大光寺曽我(嫡家)と岩楯(館)曽我(庶家)にわかれて争い、朝廷側にくみした庶家が勝利を得て、所領を安堵されています。 同じく朝廷側の工藤氏は、工藤貞行が所領を認められ、安藤氏は安藤高季に所領が安堵されているが、蝦夷管領職は鎌倉幕府の滅亡によって消滅しました。南部師行と一族には外ヶ浜 (青森市付近) が、子の南部政長には七戸が与えられます。したがって、きわめて大まかにいえば、下北・津軽両半島と津軽地方の西側地域が安藤氏、津軽地方の東側地域は曽我氏、中央部は工藤氏、青森市付近と糠部地方の大部分は南部氏の支配になったといえます。
建武新政の崩壊によって、津軽地方では曽我貞光・安藤家季のように足利尊氏側に味方する勢力が増えて、南朝方の南部氏と激しく対立します。 津軽の曽我氏・工藤氏ともに、正平15年(1360年)前後に没落し、安藤康季の一統と南部氏が津軽を支配しました。 その後の室町時代の青森県は、三戸南部氏と十三湊による安藤氏との闘い、および南部氏の津軽・糠部両郡制覇の歴史です。永享4年(1432年)、または、嘉吉3年(1443年)に、安藤氏は狄の島 (北海道) へ退きます。
天文年間(1532~55) に、浪岡北畠氏がつくったといわれる 『津軽郡中名字』によれば、現在の弘前市の西側と中・西・北津軽郡の一 部を南部盛信が、南津軽郡の南側と弘前市の東・南部分および中津軽郡の一部を南部政行が、南津軽郡の北側と北・東津軽郡を北畠具永が、それぞれ支配していたとされます。浪岡北畠氏は、建武新政崩壊後に南部氏が北畠顕家の子孫(浪岡御所)と顕信の子孫(川原御所)を保護したものとされています。
三戸南部氏は、天正10年(1582年)に第24代晴政が継ぎますが、3年で急死し、田子信直が後を継ぎます。そのために一族に確執が生じ、のちに九戸の乱に発展します。この南部氏の内紛に乗じて南部(のち大浦→津軽) 為信が台頭します。 のちの津軽氏の系譜については諸説がありますが、南部光信が、延徳3年(1491年)に、種里 (鰺ヶ沢町)に入り、次いで大浦 (岩木町) へ進出します。子の盛信、次の政信の代に地歩を 固め、政信の次の為則の婿養子となった為信が、やがて南部氏から独立する事となります。
織田信長の後を継いだ豊臣秀吉は、天正18年(1590年)のいわゆる小田原征伐によって戦国を統一し、「奥州仕置」を実施します。いちはやく所領安堵を得ていた南部信直・津軽為信は、九戸政実の乱 (1591年9月終結)に参加して、次の幕藩体制下における領地支配の基礎を確立します。
安土桃山時代 から 江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、徳川方についた津軽為信と南部信直は、ともに近世大名として藩の経営にあたります。 関ヶ原の戦功によって上野国勢多郡に2,000石を加増されて4万7,000石となったという津軽藩は、津軽為信の死後、慶長14年(1609年)に、津軽信枚が2代藩主となり、1611年に徳川家康の養女満天姫を正室とし幕府との関係を密接なものとします。津軽信枚は同年に、高岡【寛永5年(1628年)、弘前と改称】に城を築き、城下町を建設します。1624年には青森に町づくりを始め、翌年開港した青森は東廻り海運の港として発展しました。
南部信直は、九戸城に入って福岡城と改め、慶長4年(1599年)不来方 (盛岡) 城に移ります。 中世以来の三戸南部氏は盛岡南部藩となります。寛永11年(1634年)に、幕府から公認された石高は10郡10万石あり、 寛文4年(1664年)、28代 (盛岡南部3代) 重直は、継嗣のないままに没し、その後継をめぐって藩論がわかれます。結局幕府が介入して重直の遺領10万石のうち8万石を弟南部重信が相続し、次弟南部直房が、2 万石を相続して八戸藩主となります。
このようにして近世の青森県は、八戸周辺の83村2万石を領する 八戸南部藩と、盛岡南部藩の三戸郡 (三戸通・五戸通)と北郡 (七戸通・野辺地通・田名部通)、および津軽藩【文化6年(1809) 年1万石の黒石津軽藩が分立】の3藩から構成されることとなります。
津軽藩では、4代藩主・津軽信政 (治政1656~1710) が、約50年間に諸制度を整え「津軽藩中興の英主」と称されています。新田開発を積極的に推進し、岩木川の治水貞享検地・屏風山植林などを行い、養蚕・製糸・機織の指導者として野元道玄を招くなど、各界の堪能者を招聘して産業の振興をはかります。 また、山鹿流兵学の導入や自ら吉川神道を学び、古典・神道・兵法にも通じています。 家中 百姓町人に対する法度など法令が整備されたのも津軽信政の時代となっています。
盛岡南部藩領は偏東風のため生産力が低く、稲はたびたび凶作に見舞われたため、畑作雑穀の生産が盛んでした。 特に大豆は「南部大豆」として藩が買い上げていました。米と雑穀を補うのが、古代以来の伝統をもつ馬産と豊富な森林、住谷野・木崎野など九つの藩営牧場を経営し、民有の馬(里馬)も牛馬改役を置いて、春秋2回領内の総馬改を行っていました。また、特に下北半島のヒバは早くから北陸方面に移出されていましたが、明暦の江戸大火後の需要増加や東廻り海運の発達などによって移出が大幅に増加しました。【宝暦10年(1760年)に下北半島のヒバ林を全部留山とした。】藩の財源となったものに野辺地湊からの大坂廻銅 (「御登銅」) と前記の「御登大豆」があり、銅は尾去沢銅山 (秋田県) の銅を陸路野辺地湊まで運び大坂へ送りました。なお, 大畑・大間・佐井・大平・九艘泊・川内などが「田名部諸湊」として、上方と結ぶ日本海交通の拠点でした。
八戸南部藩も畑作に多く依存し、妙野・広野に藩営牧場を経営しました。また、特に注目されるのが金目高制で、延宝3年(1675年)からこの制度をとり, 砂金1匁(もんめ)を360文に換算して納入させる方法で、砂金という特産物を米納にかえていたのが特徴です。
江戸時代中期以降になると各藩とも慢性的な財政難に陥り、藩政の改革が行われます。弘前津軽藩では、7代藩主信寧の治政40年(1744~84)は凶作飢饉・風水害などによって財政が窮乏し、これを打開するために、宝暦3年(1753年)から宝暦8年(1758年)にかけて乳井貢を中心とした「宝暦の改革」が行われます。しかし、標符(米切手)発行と貸借無差別令が領国経済を混乱させて、改革は失敗に終わります。その後、全国的な天明の大飢饉によって、領内人口の約3分の1にあ たる8万人余の餓死者を出したとされています。この大飢饉の最中に 8代藩主となった津軽信明、および9代津軽寧親が「寛政の改革」を推進します。この改革は、備荒貯蓄と藩士土着制を実施したことに特色があり、後者の政策が成功せず改革は失敗に終わります。
天保3年〜10年(1832~39年)は、いわゆる天保の大飢饉で、弘前津軽藩でも3万人以上の死者が出ており、1839年には11代藩主津軽順承は徹底した節約を実施し、荒田の復旧・新田の開発、備荒貯蓄制度の充実をはかります。この「天保の改革」の成果で、弘前津軽藩は幕末の凶作を乗り切ることができたといわれています。
盛岡南部藩では、元禄年間(1688~1704) の数度の大凶作にも餓死者が出ており、宝暦5年(1755年)は、未曽有の冷害に見舞われ、人口約35万人中6万人が餓死するという惨状を呈しています。続いて、天明の大飢饉・天保の大飢饉が襲い、百姓一揆が最も多く発生した (江戸時代を通じて214件ともいう)のが盛岡南部藩であり、青森県域では、三戸通3件・五戸通4件・七戸通4件・野辺地通1件・田名部通5件の計17件と意外に少ないとされています。
盛岡南部藩の新田開発で注目されるのは、安政2年(1855年)に着手した三本木原開拓で、新渡戸伝・十次郎父子2代にわたって奥入瀬川から取水し穴堰を通して三本木原に用水を引いきまちづくりの源流を作ります。
八戸南部藩でも、元禄宝暦・天明の大飢饉で多くの餓死者を出します。8代藩主南部信真は、文政2年(1819年)から、天保5年(1834年)に至る15年間に、野村軍記を中心とする「文政の改革」(御主法替) を行います。この改革の主な狙いは、専売制度の実施です。また、大野鉄山 (岩手県) を藩の直営として、鉄の生産と移出も藩が独占します。この改革によって藩財政は一時好転しましたが、天保の大飢饉で財政は再び窮乏し、1834年には、惣百姓一揆が起こって、野村軍記は失脚して改革は終わってしまいます。
本州の北端に位置する弘前津軽藩と盛岡南部藩は、蝦夷地警備の負担を負います。 津軽藩は、早くに寛文9年(1669年)のシャクシャインの乱に出兵していますが、寛政4年(1792年)のラクスマンの根室来航以 後、それが頻繁となります。幕府は、享和2年(1802年)に蝦夷奉行(後の箱館奉行)を置いて東蝦夷地を直轄地とし、文化元年(1804年)、弘前・津軽・盛岡南部両藩に永久警衛を命じます。1807年、幕府は西蝦夷地をも松前藩から収公して全蝦夷地を直轄領とし、弘前津軽・盛岡南部 (仙台・会津にも)藩に警衛を命じます。 翌1808年36代南部利敬は20万石に、津軽寧親は10万石に昇格しますが、封地はそのままで、軍役の負担増となって財政を圧迫したのであります。
ペリーの浦賀来航を機に、幕末の政局は、めまぐるしく変転し、慶応3年(1867年)10月の大政奉還、同12月の王政復古の大号令があり、この中央の動きは、奥羽地方にも新しい局面をもたらします。1868年5月、奥羽鎮撫総督に対する25藩の奥羽列藩同盟が結成されますが、各藩ともその内部事情から藩論は、必ずしも一定していませんでした。 弘前津軽藩は、王や天皇に忠義を尽くす勤王へと大転換しますが、盛岡南部藩は同盟を破った秋田藩を攻撃して敗退します。これがのちに白石13万石への国替えとなります。朝敵となった会津藩20万石は、3万石へ格下げのうえ北郡(七戸南部藩領を除く)三戸郡(八戸南部藩領を除く) 二戸郡 (金田一村以北) を与えられ斗南藩と称します。
弘前津軽・盛岡南部両藩のとった道の違いが、野辺地戦争という無用の戦いを招きます。明治2年(1869年)5月18日榎本武揚らの降伏によって箱館戦争も終わり、その直後に版籍奉還が行われます。これによって、青森県域は、弘前津軽藩・黒石津軽藩と八戸南部藩・七戸南部藩・斗南藩の5藩が新しい時代を迎える事となります。なお、七戸南部藩は、文政2年(1819年)に南部信隣が蔵米足しをうけて大名に列した事となっています。
明治時代
版籍奉還が行われましたが、旧藩主が依然として旧領地におり、各地で農民一揆が頻発します。明治3年(1870 年)10月に七戸南部藩13ヵ村で一揆が起こっています。 なお、政府の直轄となった旧盛岡南部藩領の北・三戸・二戸郡は、弘前津軽藩の管理から、1869年2月黒羽藩 (栃木県) の管理となします。黒羽藩は、この地域を「北奥県」と名づけますが、同年8月に九戸県が創設されたため、わずか6ヵ月間存続したにすぎませんでした。(九戸県は、のちに三戸県と改称され、斗南藩の創設で消滅。)
政府は、明治4年(1871年)7月に廃藩置県を断行します。 青森県域では、弘前・七戸・八戸・斗南・黒石の5県が成立し、9月にこの5県に館県(旧松前藩)を合併して新しい弘前県が誕生します。弘前県は、岩手県二戸郡から北海道の渡島・檜山地方にまたがる大県となりましたが、まもなく青森県となり、県庁も弘前城から青森の御仮屋に移転します。1873年に、館県を北海道を開発するためにおかれた役所である開拓使へ、1876年に二戸郡を岩手県へ編入して現在の青森県域が出来上がります。
廃藩置県後も明治政府の基盤は弱く、明治6年(1873年 )、征韓論の分裂以降、西南日本を中心に武力反抗が続きます。それに終止符を打ったのが1877年の西南戦争です。本県でも西郷隆盛に相応じていたという真田太古(大幸)事件が起こっています。
西南戦争の終結によって、反政府運動は武力から言論へと転換し、自由民権運動が高まります。青森県では、津軽の共同会、八戸地区の暢伸社がその代表です。 共同会は、旧藩校稽古館の流れをくむ東奥義塾が母体で、菊池九郎・本多庸一が中心でした。 1明治12年(1879年)3月に、青森に県内各地の有志が集まり、 国会開設に関して政府や長上などに自己の意見を申立てる文書、建白書を可決しています。 しかし共同会は、1881年の「国会開設の詔」、それに続く政党の結成と政府の弾圧によって、1883年に解散します。 暢伸社は、1882年の「産馬紛争」(馬のせり市の手数料問題で、結局旧藩以来の慣例が公認された)で力をのばし、このときに活躍した源晟・奈須川光宝らが土曜会を結成。これらが全県的運動として結集したのが、1888年の県知事、鍋島幹に対抗した「無神経事件」です。県知事の官報掲載記事が、県民を侮辱したとして反発し、問題解決のため、高知藩士で、大同団結を説く後藤象二郎も来県したのでした。
農産物
青森県産業を象徴するものの一つがリンゴです。明治8年(1875年)から翌年にかけて、内務省勧業寮から配布された苗木をもとに、士族授産の趣旨で始まりました。山野茂樹・菊池楯衛ら旧藩士の努力があり、その後、豪農・豪商栽培から小農栽培に発展しました。
3方が海に囲まれた青森県はまた漁業県でもあります。 特に全国有数の水揚高を誇る八戸漁港は、大正8年(1919年)に着工し、昭和8年(1933年)に竣工。藩政期のホタテガイは、干貝柱が長崎俵物の一つとして中国に輸出されていた事もあります。その後、一時衰退した頃もありますが、1943年に北海道の猿澗湖からの稚貝が陸奥湾内に放流され、これが今日の陸奥湾ホタテの基礎となっています。
米が青森県の主要生産物になるまでには、その間にたびたび冷害・凶作に見舞われています。明治・大正・昭和期を通じて数えられないほど沢山あります。 そのため農村の収入源は、北海道のニシン漁場やカムチャツカの蟹工船での労働がおもなものでした。昭和6年(1931年)に勃発した満州事変を契機として,やがて満州国ができると、新天地の広野に開拓の鍬をふるった者も多かった。 (現在では関東地方を中心とする出稼ぎといった形をとっている)
こうしたなかで、耐冷性の水稲品種がつくり出され、さまざまな経緯を経て、県農事試験場藤坂支場(十和田市)で、藤坂1号が誕生したのが昭和17年(1942年)です。早生・耐冷・多収の3条件を備えた画期的な品種「藤坂5号」が生まれたのは1949年で、以後、品種の改良事業が続いています。なお、ヒバを主とする林産は、弘前・津軽・盛岡南部藩の留山が国有林となったことによるもので、藩政期の遺産といえます。
時を経て現在では、品種改良が進み、「つがるロマン(1997年)」「まっしぐら(2005年)」「青天の霹靂(2015年)」「はれわたり(2022年)などブランド米が好評を得ています。
青森県は全国有数の農業産出県であり、食料自給率はカロリーベースで118%で、リンゴ、ナガイモ、ニンニクが全国一の生産量となっています。漁業では全国有数の水揚高である八戸漁港が、サバ・イカが国内一の水揚げとなっており、全国に出荷されています。
工業 (電力関係)
青森県南部では、1964年(昭和39)年に発足した八戸の新産業都市建設は現在の八戸市の礎となっており、国策で建設された八戸臨海工業地帯があり、火力発電所、製紙工場、電気機器工場、造船所およびその関連産業が立地しています。
下北半島では、いわゆる「むつ小川原開発計画」は「核燃料サイクル基地」の拠点として存在し、小川原湖周辺(六ヶ所村)から東部(むつ市)、北部(大間町)にかけて国策事業である原子力発電関連施設が点在します。核燃料サイクル施設を運営・建設する日本原燃は県内主要企業でもあり、国際協力で核融合を研究するITER関連施設、原子力発電所が立地しています。
また、経産省と環境省による『風況調査』によると青森県、秋田県、北海道などは風力発電に向いており、年間安定した風力が得られ、採算が取れる見込みがあることと、脱炭素化社会の流れもあり、再生可能エネルギーである風力発電の建設計画が進められています。その反面、風車の大きさが自然と調和せず、外観を損ねる理由から建設反対の声が多く上がっており注目が高まっています。