十和田市と馬の歴史|馬と人が築いたまちづくりの歴史

青森県十和田市は、馬市や軍馬補充部、南部馬の産地として栄えた“馬と人のまち”。本ページでは、その歴史と地域の歩みをわかりやすく紹介します。

十和田市官庁街通り | 馬と蛙のオブジェ

青森県十和田市の馬産地としての歴史背景

青森県十和田市を紹介する際、「青森県十和田市は馬の馬産地として有名で・・・・」と言いますが、今回は、十和田市と馬の歴史についてご紹介します。

はるか昔の十和田市周辺はどのような環境で先祖たちはどのような生活を送っていたのでしょうか。

十和田湖民俗資料館

十和田湖民俗資料館

青森県十和田市、奥入瀬渓流の入口に佇む「十和田湖民俗資料館」は、地域に根ざした暮らしと文化を今に伝える施設です。住民から寄贈された農具や民具、衣類などを展示しており、昭和初期までの素朴な生活を感じることができます。多くの展示品は手に取ることも可能です。

敷地内には、江戸時代後期の茅葺き屋根の「旧笠石家住宅」も移築され、国の重要文化財に指定されています。東北地方の伝統的な農家建築を現代に伝える貴重な建物です。

所在地
〒034-0301
十和田市大字奥瀬字栃久保80
TEL 0176-74-2547

三本木原台地の厳しい暮らしと馬市の役割

今から400年以上も前、江戸時代になると職業によって身分がはっきり分けられ、農民は武士に継ぐ地位を与えられていました。ただ実際には「百姓とごまの油は、絞れば絞るほど出る物」として重い年貢を取られていたそうです。

かつての三本木地方(現在の十和田市一帯)は、「山野多くして田畑少なし」と言われるほど水田が少なく、藤島村(現在の相坂付近)を除けば、痩せた土地が多く、全体的に収穫量は乏しかったと伝えられています。

1年間の米の収穫量は、最も多かった伝法寺村(現在の伝法寺付近)で9俵余り、最も少なかった三本木村(現在の十和田市中心部付近)では、わずか2俵余りにとどまりました。

しかも、その3分の2は年貢として徴収され、農民の手元にはほとんど残りませんでした。重い年貢に耐えきれず、土地を手放して地主のもとで小作人として働く人も多かったと言われています。

さらに、気候条件も厳しく、3年に1度は冷害による凶作に見舞われるなど、生活は非常に困難でした。そんな中で農民の暮らしを支えたのが、各戸で平均2.5頭飼われていた馬の存在です。

その背景には、新渡戸傳が開いた「馬市」の存在があり、馬が貴重な収入源となっていたことが、大きな支えとなっていました。

新渡戸傳

太素塚にある新渡戸傳の像

新渡戸傳と三本木開拓のはじまり

新渡戸傳(にとべ・つとう)は、1793年(寛政5年)から1871年(明治4年)にかけて活躍し、現在の十和田市発展の礎を築いた開拓者として知られています。

当時、十和田市の中心に広がっていた「三本木原台地」は、「三本の木しか生えていなかった」と言われるほどの荒れ地でした。

新渡戸傳は、十和田湖から流れる奥入瀬川の水をこの台地へ引き込み、見事、作物を育てるために人工的に農地に水を供給することに成功。

不毛の大地を肥えた農地へと変え、現在の農業や畜産の基盤を築きました。この用水は「稲生川(いなおいがわ)」と名付けられ、今も市民に親しまれています。

また、新渡戸傳が始めた「馬市」は、地域経済を支える重要な仕組みとなりました。馬が高値で売れても、その代金の大部分は藩に徴収され、手元に残るのはわずかでしたが、それでも凶作の年には馬を売ることで暮らしをつなぐことができたと言います。この馬市が、後の十和田市の経済的土台となったことは間違いありません。

稲生川

十和田市内を流れる稲生川

桜の広場

馬蹄のモニュメント

馬が築いた地域経済の基盤 ― 明治時代の馬市と畜産業


1863年(文久3年)、新渡戸傳によって開かれた馬市は、明治時代に入ると参加地域を拡大し、やがて県が直接運営する制度へと発展していきました。

明治17年(1884年)には、馬市の対象地域が田名部・野辺地・七戸・三本木・五戸・八戸・三戸の7地区に定められ、密かに行われていたオス馬の個人売買は禁止。2歳の秋には必ず市場で競売されることが義務付けられました。

また、売買で得た代金のうち最大3割を共同の運営費に充てる「産馬組合」がこの時に誕生。これがのちの畜産農業協同組合の前身となります。

当時の三本木地方は、米の収穫が少なく冷害も多かったため、馬の売買は農家にとって重要な収入源でした。さらに追い風となったのが、国による軍馬育成政策です。

政府は軍用馬を高額で買い上げるようになり、農家はこぞって馬の飼育に力を入れるように。1898年(明治31年)には、三本木が「日本一の馬産地」として知られるまでになりました。

これは当時の明治政府が掲げた「富国強兵」、すなわち経済発展と軍事力強化を目指す政策の一環でもありました。軍は馬の重要性に着目し、1884年(明治17年)、三本木に軍馬育成所を設置。のちに「軍馬補充部三本木支部」と名を改め、太平洋戦争が終わる1945年(昭和20年)まで、実に60年にわたり地域に大きく貢献しました。

「軍馬二万町歩」と呼ばれる広大な育成用地には、多くの人が雇用され、1934年(昭和9年)には従業員数が200人を超えるなど、この地に大きな経済的恩恵をもたらしました。

また、軍は周辺の馬産家から馬を買い取っており、その価格は一般の馬と比べて非常に高価でした。農家は競って「軍馬御用馬」を育て、1935年(昭和10年)には三本木産馬組合が日本一の生産頭数を記録しました。

戦後、この軍馬補充部の用地は解放され、その跡地に現在の十和田市中心部が形成されました。つまり、軍馬補充部の存在こそが、地域発展の原点だったと言えるでしょう。

十和田市と馬の歴史
蔵のオブジェ 鐙(あぶみ)像

三本木を支えた馬の育成 ― 産馬組合と育成会の取り組み

馬の産業が根付いた三本木では、産馬組合や軍馬補充部の設置により、馬の品質向上を目指す体制が整えられていきました。特に優良馬の育成と改良を目的として、地域では「育成会」が組織され、研究や実践的な育成活動が進められました。

1884年(明治17年)の産馬組合設立以降、三本木では軍馬補充部と連携しながら、軍用に適した優れた馬の育成に力を注いできました。産馬組合は馬の登録や検査を担い、2歳馬には「総馬改め」と呼ばれる検査の際に烙印が施されていました。三本木の印は、数字の「8」に似た独特の形状をしていたといいます。

この地域では、古くから南部馬の名で知られる良馬の産地として知られ、大正時代から昭和初期にかけては、より優れた馬の育成を目的に「愛馬会」や「育成会」が各地で結成されました。特に大不動と上米田が合同で育成会を立ち上げたのをきっかけに、その取り組みは三本木産馬組合管内の11か所、さらには五戸、三戸など近隣地域にも広がっていきました。

各育成会では独自の規定を設け、定期的に品評会を開催。馬の育成成果を競い合い、優れた馬が評価される機会となりました。これらの品評会は、いわば競り市に向けた“予選会”のような役割を果たしており、上位入賞馬は競り市でも高値で取引されたと伝えられています。

こうした取り組みにより、優良馬の育成が進み、競り市での高評価が地域経済の潤いへとつながっていきました。三本木は、こうして日本有数の馬産地としての地位を確立していったのです。

南部馬と十和田市の歴史

十和田市は南部馬の産地として有名です。南部馬は平安時代の源平で有名な平家物語で登場し活躍しています。現在は、外国の品種をかけあわせて雑種にされてしまい、いまはもう絶滅した在来馬です。その南部馬についてご紹介します。

南部馬は旧南部藩で改良された在来馬で、乗用に向いていたタイプと駄馬に向いていたタイプの2種類が知られていました。しかし、西欧並の騎兵戦力を持つため明治政府が大型の外国品種と在来種の雑種による改良をおしすすめた結果、純粋な南部馬は絶滅しました。

南部馬はいつ頃から有名だったのでしょうか。

それは源平の頃、平安時代より全国的に有名であったとされています。

平安時代の始めの頃(794年ごろ)の「後撰和歌集」(ごせんわかしゅう)に既に南部馬を呼んだ歌があります。その後は各地から名馬も出ましたが、南部馬の場合、源義経の頃の伝説の名馬「生接」「磨墨」が活躍した事で、南部馬は一躍、全国に名が知られるようになりました。

十和田市と馬の歴史

日本初の英国式競馬で活躍した名馬の南部馬「盛号」

南部氏と馬産の歴史

現在の岩手県平泉に拠点を置いていた藤原氏は、馬と砂金によって莫大な富を築きました。しかし、源頼朝により滅ぼされ、その後に鎌倉幕府から派遣されたのが、南部氏の祖とされる南部光行でした。

当時、馬は戦において欠かせない重要な戦力であり、南部光行も馬産に力を注いだと伝えられています。彼は、かつて甲斐国(現在の山梨県)で朝廷が設置した馬の管理機関「牧監(ぼくげん)」の役職に就いていたとも言われており、馬の育成に深い知識を持っていた人物でした。

南部光行が築いた南部藩では、馬は重要な財源となり、藩は各地に牧場を開設しました。また、民間の馬も厳しく管理し、さらに一般の馬産家に種馬を貸し出すなどして、馬の改良と生産力の向上を図っていきました。

こうして育成された馬は、2歳になると必ず競売(セリ市)に出すことが義務付けられていたとされます。

この伝統は後に三本木地方の「馬市」として受け継がれ、三本木開拓の祖である新渡戸傳が新駅開発と共に制度化し、今日までその名残が残されています。

十和田市と馬の歴史

南部地方の祖 南部光行

十和田市と馬の歴史

以前は南部馬の血統を引いていた下北地方の寒立馬(かんだちめ)
今現在は、南部馬の血統は引いていない。

十和田市と馬の歴史

馬市の様子

十和田市と馬の歴史

十和田商工会館前にある馬蹄のモニュメント
近くで見ると官庁街通り付近の地図になっている

「軍馬御用」で賑わったまち 〜三本木に咲いた馬市の栄華〜

国が三本木に軍馬育成所を設置して以来、この地域の馬産業は次第に盛んになりました。1897年(明治30年)には、軍が徴発した馬の数が8,414頭に達し、国内有数の馬産地となりました。1906年(明治39年)には馬政局が設置され、30年計画が策定されました。

さらに、1908年(明治41年)には野辺地に国営種馬場が設置され、1912年(大正元年)には七戸に県立種馬育成所が開設されるなど、馬産熱は一層高まっていきました。第1次世界大戦後の好景気に沸いた1918年(大正7年)には、約7,000頭の馬が取引され、1頭あたり平均259円という当時としては高値を記録したと新聞が伝えています。

しかしその後、大正から昭和初期にかけての世界的不況の影響で馬の価格は低迷しました。再び馬市が賑わい始めたのは、太平洋戦争前の日中戦争期からで、この時期の「軍馬需要」が大きな要因でした。

軍馬の需要増加と米価の上昇により、馬市の取引額は急増。従来80円ほどだった2歳馬(アングロ・ノルマン系やアラブ系)が、350円から500円へと一気に跳ね上がりました。

馬の競りでは「軍馬御用!」の掛け声とともに補充部が馬を購入し、中には1,200円という高額で落札される馬もありました。これは将官クラスの乗用馬とみられています。

毎年11月から始まる馬市は、その後に続く牛市とともに約1ヶ月間開催され、全国から馬喰(うまくい)たちが集まりました。旅館は満員、街の中心部は馬の列で終日にぎわい、産馬通りには屋台や飲み屋が立ち並び、人や馬、馬糞の匂いが充満していたといいます。

また、馬が休む「馬喰宿」では馬の餌「とな」を手際よく作る音が夜明けまで響き渡り、「軍馬御用」を引き当てた馬主が料亭で豪勢に振る舞う様子も伝えられています。

こうして軍馬補充部が根付いた三本木は戦前まで馬市のブームが続き、地元の産馬を高値で買い上げ、多くの雇用と物資調達を生み出しました。これらが三本木町の経済発展に大きく寄与したのです。

戦争による軍馬需要の急増

日清戦争(1894年-1895年)、日露戦争(1904年-1905年)と続く戦争において、軍馬は武器として需要が増していきました。

太平洋戦争の頃になると飛行機をはじめ化学兵器の増産が急務とされ軍馬は兵器としての役割が薄れましたが、太平洋戦争終戦後の1946年(昭和21年)には軍馬補充部の解体により軍馬としての需要は途絶えてしまいました。

その為、馬産家は目標を失って混乱し、これまで飼っていた馬を役立てるか困っていました。

当然、馬の数は減っていき昭和20年代には1万頭前後も飼育されていた馬が、それから20年後の昭和40年代にはわずか100頭余りになってしまいました。

十和田市と馬の歴史

官庁街通りにある馬をモチーフとしたマンホール

軍馬・農耕馬から機械への役割交代と畜産業の変化

このように太平洋戦争後は、軍馬、農耕馬としての馬は、機械に役目を譲り、姿を消してしまいました。

そして、それまでの馬が中心の産業が衰退し、現在では、牛、豚中心の畜産業へ移行していきます。

また、軍馬補充部用地の解放によって、約4,000へクタールの広大な軍用地が使用できる事になった三本木町では、都市計画に乗り出し札幌市をモデルとして76ヘクタールに及ぶ区画整理を行い、軍馬補充部正門道路に幅36メートル、長さ1キロメートルの街路を作り「官庁街通り」として、さらに商業地域、住宅地域の指定など、町民の都市化への夢を膨らませていきます。

そして、広大な用地を都市計画の実現を進展させ、多くの用地に多数の帰農者を収容し食料基地として発展させていきました。

1町3村に渡る約4,000ヘクタールの旧軍用地のうち、700ヘクタールを開田に充て、2,500町歩を開畑に、残りを宅地や防風林などにする計画を立て、旧軍用地の8割を農業に利用しようと移行していきます。

このように、三本木原台地を開拓した新渡戸傳は、奥入瀬川から流れる河川「稲生川」から流れる水を農水路として利用できるようにした歴史があり、 その流れる水と軍馬補充部の解放された土地を利用し、田畑をつくり、現在では、全国でも有名な農畜産物の生産地域へと変貌を遂げました。

そして、軍馬補充部があった中心部は整備を行い、現在の官庁街通りとなりました。

現在では、十和田市現代美術館を代表する美しい街並みを築く十和田市へと発展していったのです。

十和田市現代美術館

軍馬補充部があった官庁街通り
現在では十和田市現代美術館を代表する美しい街並みを築いている

十和田市と馬の歴史について

軍馬補充部三本木支部 創立100周年を記念する石碑

軍馬補充部三本木支部の記念石碑

「日本の道100選」に選ばれた十和田市官庁街通りにある市民図書館の駐車場には、この十和田市に軍馬補充部がここにあった事を記す記念石碑があります。

この記念石碑には、こう刻まれています。

陸軍軍馬補充部三本木支部は明治18年、この地に設置され、以来60年間軍馬の育成にあたった。

軍馬用地は本部の本厩と切田分厩(今の吾郷)赤沼分厩(今の八郷)元村分厩(今の七郷)七戸派出部(旧・天間林村)中山派出部(岩手県二戸町奥中山)の六牧場に分かれ育成馬は2,850頭で年間約900頭を軍に補充した。

育成期間は2歳から5歳までの4年間で仔馬は農家から買い上げ、その「三本木せり」は全国に名をはせ、町をにぎわし補充部要員も地元雇用をしたから地元経済を大いに潤した。

更に大量の飼料を自給するため早くから西洋式の機械化に先鞭をつけ、その技術はこの地に残された。

昭和20年、終戦を機に軍用地は農地として解放され農業立市の基盤を作った。

ここ官庁街通りは軍馬補充部正門から本部庁舎までの主幹道路の跡で美しい松並木は当時の面影を残し、昭和61年「日本の道100選」に選ばれた。

100周年を機にこれを記し後世に伝える

昭和61年10月吉日

軍馬補充部三本木支部 創立100周年記念事業実行委員会

十和田市と馬の歴史について

十和田市馬事公苑 称徳館

石碑に刻まれた「つなぐ想い」

記念石碑の最後の文章「100周年を機にこれを記し後世に伝える」は、ここに軍馬補充部があった事が、今ある住み良い街と後世まで受け継いだくれた先人たちの「つなぐ想い」。そして、官庁街通りに様々な馬に関わるモニュメントを設置した先人たちの功績を称え、後世に「つなぐ想い」もまた感じ取れます。

十和田市官庁通りにお越しの際は、様々な馬のモニュメントを見て、先人たちの想いを感じとる事ができるのではないでしょうか。

その他、十和田市の馬に関わる貴重な資料は、全国でも珍しい馬の文化資料館称徳館(しょうとくかん)に、馬に関する数多くの資料を保有、展示しています。ぜひ青森県十和田市にお越しの際はお立ち寄りください。

※こちらの記事は、2019年1月に公開した「十和田市と馬の歴史について」を加筆修正したものです。

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