アントニオ猪木家の墓とは
青森県十和田市蔦地区にある蔦温泉旅館。全国的にも有名なこの場所より徒歩3分、大町桂月のお墓があり、その敷地内には、プロレス界のレジェンド「燃える闘魂」アントニオ猪木氏が建立した「アントニオ猪木家の墓」があります。
2022年(令和4年)5月22日、アントニオ猪木氏はじめ遺族ら70人と共に2019年8月に亡くなった妻・田鶴子さんの納骨式とアントニオ猪木家の墓建立式を行いました。この場所は、明治時代の文豪・大町桂月の墓や、蔦温泉を代々守り抜いた小笠原家のお墓。十和田湖・奥入瀬渓流の発展に尽くした武田千代三郎・小笠原耕一の功労碑がある場所となります。
位置情報
〒034-0301 青森県十和田市奥瀬蔦
蔦温泉
奥入瀬渓流に程近い南八甲田にある蔦温泉は、約千年前から人々に親しまれ続ける秘湯でブナの高木で囲まれた一軒宿です。1909年(明治42年)の開業で、本館は1918年(大正7年)にトチノキやブナを用いて建てられたもので、その閑静なたたずまいは、人声や物音で騒がしいことはなく、静かな環境に恵まれ、今なお昔の面影を偲ばせています。
ヒバ造りの浴場は源泉の真上に造られ、無色透明無味無臭の温泉が直接湧き出ています。遠い昔、1147年(久安3年)源頼朝が生まれた頃、すでに湯治場として存在しており地域の人たちに利用されていました。ツタはアイヌ語でワラビを意味し、この地域はワラビの産地となっていて、蔦温泉旅館の近くから見える八甲田連邦・標高1584mの大岳、1552mの高田大岳、紅葉の名所としても有名な蔦沼があります。大町桂月が晩年を過ごした宿としても知られ、大町桂月の墓、没後50周年記念碑、歌碑などが周囲に点在しています。
大町桂月
高知県出身の大町桂月は明治から大正にかけて活躍した作家で、終生酒と旅を愛し、酒仙・山水開眼の士と称されました。全国を旅した大町桂月は、十和田湖と奥入瀬渓流を愛し、紀行文を雑誌に寄せるなどしてその魅力を全国に広めた人物です。晩年は蔦温泉に居住し、1925年(大正14年)6月10日、蔦温泉で没しました。亡くなる直前に本籍をこの地に移されています。
大町桂月が初めて十和田を知り来訪したのは、明治41年(1908年)8月、東京都の出版社である当時の博文館が発行していた雑誌「太陽」の主筆で青森県五戸町出身のジャーナリスト鳥谷部春汀が「故郷に十和田湖という景色のよいところがある。是非一度見せたい。」と大町桂月を誘ったことにはじまります。
大町桂月は、十和田に来訪し十和田湖の舟遊や、その頃はまだ道もなかった山や渓流を探索され、紀行文を雑誌「太陽」に掲載。十和田湖と奥入瀬渓流の名が全国へ発信され、その後の十和田国立公園へ選ばれるきっかけとなる出来事となりました。その後、大正10年、大正11年、大正14年と来訪され、大町桂月は晩年、蔦温泉に居住し、毎日のように奥入瀬渓流を歩き、子ノ口までの14kmを樹木のトンネルを潜っては、進むこの道こそ「住まば日の本、遊ばば十和田、歩けや奥入瀬三里半」と有名な句を唄われました。
1953年(昭和28年)10月、十和田湖湖畔休屋に高村光太郎作、顕彰碑「乙女の像」が建立されました。乙女の像は、十和田湖・奥入瀬渓流発展に尽くした大町桂月・武田千代三郎・小笠原耕一の功労碑となり、十和田湖を象徴するアイコンとして存在しています。
アントニオ猪木と大町桂月
アントニオ猪木氏がお墓を建立した理由として、蔦温泉旅館は大町桂月の墓を1925年(大正14年)から100年近く守り続けていることに信頼を寄せたからといいます。
また、時代こそ違えど十和田湖・奥入瀬渓流の景観美に魅かれ、この地を選ばれたお2人には共通点さえ感じます。
アントニオ猪木氏が唄う有名な句『道』
「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ – アントニオ猪木-」
大町桂月のお墓に添いし歌碑
『極楽へこゆる峠のひとやすみ蔦のいで湯に身をばきよめて – 大町桂月 -』
辿り着いたその道は、青森県十和田市の自然美・景観美豊かな安らぎの地「蔦温泉」。
偉大なお2人の共通の想いを感じます。