
和井内貞行
和井内貞行の生い立ちと十和田湖との出会い
和井内貞行(わいない・さだゆき)(1858年〈安政5年〉~1922年〈大正11年〉)は、1858年2月15日、盛岡藩鹿角郡毛馬内村柏崎(現在の秋田県鹿角市)に生まれました。和井内家は、毛馬内柏崎新城の城代であった桜庭家の筆頭家老職を代々務めていた家柄で、父は和井内治郎右衛門貞明、母はエツ。幼名は「吉弥(きちや)」でした。
1866年(慶応2年)、9歳で盛岡藩の儒学者・泉沢恭助の塾に入門。1874年(明治7年)、17歳で毛馬内学校(現在の鹿角市十和田小学校)に教員手伝いとして勤め、1878年(明治11年)、鎌田倉吉氏の長女・カツと結婚しました。
1881年(明治14年)、工部省小坂鉱山寮の吏員として就職。やがて十和田湖畔の十輪田鉱山に配属され、厳しい自然の中で暮らすうちに、魚のいない十和田湖に魚を棲ませるという夢を抱くようになります。

十和田湖
魚のいない十和田湖に挑む
かつての十和田湖には、魚が一匹も棲んでいませんでした。地元では「湖にまつられている青龍権現が魚を嫌っているため」と信じられ、魚が住まないのは神のたたりだと語り継がれていました。しかし、実際には十和田湖が外部の河川とほとんどつながっておらず、魚が自然に入り込めない閉ざされた地形だったことに加え、水温が低く栄養分も乏しいという、生物にとって過酷な環境が原因でした。
この迷信に対して、学問を修めていた和井内貞行は疑問を抱き、自ら湖を観察し、調査を重ねました。そして「十和田湖に魚を棲ませたい」という夢を抱き、養魚を決意。協力者を募り、何度も役所に足を運びました。「本当に魚が住めるのか」「神の伝説を破れるのか」といった不安や反対の声にも揺らぐことなく、信念を貫きました。
なお、文献によれば、魚の放流は和井内によるものが初めてというわけではなく、1855年(安政2年)頃には、現在の十和田市沢田地区の角久平という人物が精魚を放流したという話や、1879年(明治12年)には飯岡政徳氏が毛馬内方面から健魚1万匹と輸送魚若干を取り寄せて放流したとの記録も伝わっています。しかし、これらの試みは、広大な湖においては目立った成果を上げるには至らなかったようです。
転機が訪れたのは、1884年(明治17年)のことでした。和井内貞行は、当時の十和田鉱山長・飯岡政徳氏、宇樽部の開拓者である三浦泉八氏、そして後に鉱山長となる鈴木道貫氏とともに、鯉の幼魚を十和田湖に放流しました。これは、現在に伝わる中でも最も組織的かつ継続的な魚類放流の始まりとされており、和井内にとっても本格的な養殖事業への第一歩となりました。
その後、1890年(明治23年)には、和井内・三浦・鈴木の3名が連名で青森県知事に養魚の申請を行い、1891年(明治24年)にはその許可を取得。さらに1893年(明治26年)には、秋田・青森両県から湖水使用の正式な許可も得ることができました。
この申請の時期には、湖岸において尺(約30cm)を超える鯉が泳ぐ姿が確認されたともいわれており、十和田湖でも魚が生きられるという確信が得られた重要な契機とされています。また、この願書とともに提出された副書の中には、すでに1885年(明治18年)に、子ノ口・銚子大滝に魚道を設ける計画を出願していたものの、当時は許可されなかったという記録も含まれており、これが和井内の活動に関する現存する最古の文書として知られています。
しかしその直後、主な目的であった鉱山関係者への食料供給という養殖の意義が、十輪田鉱山の休山によって失われてしまいます。こうした厳しい状況の中でも、和井内の意志は揺らぐことなく、1897年(明治30年)、40歳となった和井内は、当時、日本有数の鉱山事業を手がけていた藤田伝三郎の企業体「藤田組」を退職。十和田湖へ戻り、ヒメマスの本格的な養殖に専念することを決意したのです。
和井内貞行の挑戦|ヒメマス養殖と観光地化への道のり
1899年(明治32年)、和井内貞行は青森水産試験場からサクラマスの卵を購入し、十和田湖に5,000尾を放流。また、日光養魚場からは日光マス(ビワマス)35,000尾をふ化・放流しましたが、結果は思わしくなく、むしろ多額の借金を抱えることになってしまいました。
しかしその後、信州の商人から「北海道・支笏湖に棲むカバチェッポ(後のヒメマス)」の存在を聞き、和井内は再び希望を見出します。1901年(明治34年)、青森県水産試験場が阿寒湖原産・支笏湖育ちのヒメマスの卵20万粒を購入し、そのうち5万粒が和井内に託されました。
1903年(明治36年)、ヒメマスのふ化に成功。およそ3万匹を十和田湖に放流し、この魚に「和井内鱒(わいないます)」という名を与えました。そして2年後の1905年(明治38年)秋、ついにそのヒメマスたちが群れをなして湖に戻ってきたのです。この感動の瞬間を目の当たりにした和井内は、「われ、幻の魚を見たり」と語ったと伝えられています。
さらに和井内は、養殖事業と並行して、十和田湖を観光地としても発展させようと尽力しました。1897年(明治30年)には旅館「觀湖楼(かんころう)」を開業し、1916年(大正5年)には本格的な宿泊施設「和井内十和田ホテル」をオープン。湖畔に訪れる人々を迎える体制を整え、観光と水産の両輪によって地域の未来を切り拓いていったのです。

道の駅十和田湖にある和井内貞行と妻カツの像
妻カツの支えと家族の献身
和井内貞行は、妻カツの支えなしには成功できなかったでしょう。お金がない中で9人の子どもを育てながら、ヒメマスの購入資金を工面するために、カツは愛用の着物や櫛、懐中時計を質に入れるなど、気丈に苦境に立ち向かいました。
1905年(明治38年)、ヒメマスが初めて帰ってきた年、東北地方は大凶作に見舞われました。多額の借金を抱えていた和井内家に対し、カツは「魚を地元の人々に自由に釣らせてあげよう」と夫を説得しました。その慈愛と強さから、カツは戦前の教科書で「良妻賢母」の模範として紹介されました。
和井内ホテルの裏庭には、かつて貧しさの中で使われた石ウスが残されています。カツはこの石ウスで豆を挽き、豆腐を作って行商に出かけ、家計を支えました。裕福な商家に育ったカツが、自らの手で生活を支える姿は、まさに献身の象徴でした。
1906年(明治39年)に発行された官報によれば、和井内貞行は1884年から1905年までの約20年間にわたって9,018円を養殖事業に費やし、漁獲による収入は2,650円にとどまりました。差額の6,300円は現在の物価に換算すると3,000万円以上ともいわれています。その苦難の中、長男・貞時は秋田中学校を中退せざるを得ませんでしたが、夫婦は諦めずに養殖の夢を追い続けました。

和井内神社
和井内神社と和井内夫妻の顕彰
1905年(明治38年)、ヒメマスの養殖を私財を投じて成功させた和井内貞行と、その妻カツの徳を慕い、十和田湖西岸の遊歩道沿いに「勝漁神社(勝漁社)」が建立されました。この神社は1908年(明治41年)、湖畔の住民たちの手によって創建されたものです。
翌1907年(明治40年)、和井内の功績が国に認められ、「緑綬褒章」が授与されました。しかしその直後、長年にわたって和井内を支え続けてきた妻・カツが病に倒れ、46歳の若さでこの世を去ります。湖畔の人々はその献身に深く感謝し、神社はカツの徳も祀る場所として親しまれるようになりました。
1922年(大正11年)5月16日、和井内貞行もその波乱に満ちた生涯を閉じます。享年65。その後、彼の霊は「勝漁神社」に合祀され、1933年(昭和8年)には社名が「和井内神社」へと改められました。
現在の拝殿は1977年(昭和52年)に改築されたものであり、かつては5月3日にカツの命日を偲ぶ春の祭礼、9月21日には和井内貞行の命日にあたる秋の例祭が執り行われていました。神社は今なお、十和田湖に命をもたらした夫婦の志を伝える静かな祈りの場として、多くの人々に敬われています。

道の駅十和田湖の隣にある”ふ化場”
養殖事業の継承と現在
1950年(昭和25年)の漁業制度改革を受け、翌1951年(昭和26年)には「十和田湖増殖漁業協同組合」が漁業権を取得しました。さらに1952年(昭和27年)には、ふ化場の運営が国へと引き継がれ、ヒメマス増殖事業は現在に至るまで継続されています。そして2002年(平成14年)には、同組合によって近代的なふ化施設が新たに建設され、さらなる整備が進められました。
一方、和井内貞行が築いたふ化場跡は、現在、秋田県小坂町の史跡として保存されており、その挑戦の歴史は後世に受け継がれています。和井内は「ヒメマス養殖の父」として知られると同時に、十和田湖を観光地として発展させた功績から「十和田湖開発の父」とも称される存在です。彼の養殖技術にかけた情熱と、地域の未来を見据えた尽力は、今もなお多くの人々の記憶に刻まれ、語り継がれています。

十和田湖ひめます
商標登録と「十和田湖ひめます」ブランド
十和田湖名物の姫鱒(カバチェッポ)として知られるヒメマスは、サケ科の淡水魚で紅鮭の陸封型(湖での生活が長く海に戻れなくなった)です。その美しい姿と淡紅色の身の味わいから「姫」の名を冠され、「十和田湖ひめます」としてブランド化されました。
この「十和田湖ひめます」は、十和田湖増殖漁業協同組合が商標登録を行っており、同組合がふ化・放流・資源管理を一手に担っています。
十和田湖ひめますの特徴としては、アンセリンやアスタキサンチンといった健康成分を豊富に含み、刺身では脂の乗った柔らかな食感と甘みが際立ちます。その他、塩焼き、天ぷら、カルパッチョ、コロッケ、姿寿司など、さまざまな調理法で地域の飲食店によって親しまれています。

十和田湖を眺める位置にある「道の駅十和田湖」
和井内貞行とカツ夫人の銅像建立と道の駅十和田湖
2024年(令和6年)10月12日、十和田湖畔に新たに誕生した「道の駅十和田湖 ひめますの郷・和井内」(秋田県小坂町)に、「ヒメマス養殖の父」「十和田湖開発の父」として知られる和井内貞行と、その妻カツの銅像が建立されました。
この道の駅は、八幡平と十和田湖を結ぶ観光の拠点として整備され、秋田県側から十和田湖を訪れる際の玄関口としての役割も果たしています。施設内には、レストランやお土産コーナーのほか、「十和田湖ひめますの郷展示室」が併設されており、十和田湖の成り立ちやヒメマス養殖の歴史、和井内貞行の功績を紹介するパネル展示や「ヒメマスシアター」などが楽しめます。
道の駅の中心に据えられた和井内夫妻の銅像は、その偉業を訪れる人々に語りかけるように佇み、彼らの歩んだ歴史と地域への貢献を今に伝えています。
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