太素塚(たいそづか)|新渡戸家三代の功績を伝える十和田の歴史史跡
太素塚は、1871年(明治4年)に新渡戸傳(にとべ・つとう)が亡くなった際に建てられたお墓で、現在ではその墓を中心とした一帯を「太素塚」と呼んでいます。「太素(たいそ)」は、新渡戸傳が使っていた雅号(がごう)で、本名とは別に持つ風流な別名のことです。
新渡戸傳は、生前の1866年(慶応2年)、73歳のときに、大阪で墓石として使用する目的でお気に入りの石を購入し、自ら「太素塚」と書いて墓石に刻ませました。この墓石は、大阪から船で日本海側をまわって野辺地まで運ばれ、そこから大八車(だいはちぐるま)という、江戸時代から明治時代にかけて広く使われた大きな人力荷車を使って三本木(現在の十和田市)まで運ばれ、三本木原を一望できる小高い丘に設置されます。