十和田市と馬の歴史について④

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前回に引き続き「十和田市と馬の歴史」についてご紹介します。

前回掲載記事

「十和田市と馬の歴史について③」はこちら

日本初の英国式競馬で活躍した名馬の南部馬「盛号」

十和田市は南部馬の産地として有名です。南部馬は平安時代の源平で有名な平家物語で登場し活躍しています。現在は、外国の品種をかけあわせて雑種にされてしまい、いまはもう絶滅した在来馬です。その南部馬についてご紹介します。

南部馬は旧南部藩で改良された在来馬で、乗用に向いていたタイプと駄馬に向いていたタイプの2種類が知られていました。しかし、西欧並の騎兵戦力を持つため明治政府が大型の外国品種と在来種の雑種による改良をおしすすめた結果、純粋な南部馬は絶滅しました。

南部馬はいつ頃から有名だったのでしょうか。

それは源平の頃、平安時代より全国的に有名であったとされています。

平安時代の始めの頃(794年ごろ)の「和歌集』(ごせんわかしゅう)に既に南部馬を呼んだ歌があります。その後は各地から名馬も出ましたが、南部馬の場合、源義経の頃の伝説の名馬「生接」「磨墨」が活躍した事で、南部馬は一躍、全国に名が知られるようになりました。

南部地方の祖 南部光行

今の岩手県、平泉にある藤原氏は馬と砂金で多くの富を得ましたが、源頼朝に滅ぼされ、代わって鎌倉幕府が派遣したのが、南部の開祖とされる南部光行でした。

馬は当時から重要な武器であり、甲斐の牧監(現在の山梨県で、朝廷が設置した馬を管理する官庁の管理人)だったと言われる南部光行も当然、馬産に力を注いだとされています。

以前は南部馬の血統を引いていた下北地方の寒立馬(かんだちめ)
今現在は、南部馬の血統は引いていない。

馬は南部光行が開いた南部藩の重要な財源ともなり、牧場を開き、他にも民馬の馬も厳しく取り締まり、更には、一般の馬産家にも種馬を貸し付けるなどして、馬の改良を図っていきました。

こうして育てられた馬は、2歳になると必ずセリ市に出さなければならなかったとされています。この伝統の名残が三本木地方の馬市でもあり、開拓の祖,新渡戸傳が新駅を開発した時に始められ受け継がれていきます。

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前回掲載記事

「十和田市と馬の歴史について①」はこちら

「十和田市と馬の歴史について②」はこちら

「十和田市と馬の歴史について③」はこちら

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