新一万円札の顔 渋沢栄一 と 十和田市 の関係について

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渋沢栄一
渋沢栄一

新一万円札の顔 渋沢栄一 と 十和田市 の関係について

政府は2024年の上半期(4~9月)に、一万円札・五千円札・千円札のデザインを新しくした「新紙幣」を発行することを発表しました。 紙幣が一新されるのは2004年以来のことですが、新一万円札の顔となった 渋沢栄一 は、日本実業界の父とも呼ばれ、青森県十和田市 と繋がりの深い人物として知られています。

渋沢栄一の生い立ち

渋沢栄一は,1840年(天保11年)埼玉県深谷市に生まれます。幼名は市三郎といい、生まれの生家は大農家で、幼い頃は、読書や剣術に励んでいたようです。18歳の時に結婚をし、それを機に名前を栄一郎と改めました。その後、京都で徳川最後の将軍、徳川慶喜の家臣となり、ヨーロッパ各国を訪問し様々な事を学びます。しかし、大政奉還に伴い、1867年(慶応3年)、新政府となり帰国します。帰国後、大蔵省に入省しますが、予算編成をめぐって対立し、1873年(明治6年)退官、先進国の産業設備や経済制度を学んだ渋沢栄一は、日本で最初の銀行、第一国立銀行を設立し多くの地方銀行設立と指導を行い、東京瓦斯(東京ガス)、東京海上火災保険王子製紙秩父セメント帝国ホテル東京証券取引所など500以上の多種多様な企業を設立していきます。

そして、渋沢栄一 と 三本木 (現在の十和田市)の関わりは、三本木共立開墾会社株券を所有したことから始まる事となります。

十和田市 開拓の歴史

十和田市の歴史を紐解けば、三本木原開拓から始まります。

日本三大開拓地」のひとつである十和田市は、荒れ果てた台地から、川をつくり、田畑をつくり、町が整備され現在の十和田市を作り上げてきました。これは、先人たちの活躍があり、先人たちの歴史が、今の街並みを築いていると言っても過言ではありません。

開祖 新渡戸傳 と 新戸部十次郎

三本木原は、青森県東部,小川原湖の南西方に展開する洪積台地。火山灰の堆積による台地で,かつては水利の悪い原野で、1855年(安政2年)南部藩士の新渡戸傳、息子の新渡戸十次郎により、奥入瀬川から2本の穴堰を掘削、上水に成功し、その川「稲生川」から流れる水で米45俵を収穫するまで開拓は進みます。三本木開拓は成功したように見えましたが、三本木原の土壌は漏水が激しく、思うように水が上がらない状況であったため、新渡戸十次郎は、もう1本、稲生川を通そうと試みるのですが、穴堰を1000m掘ったところで死去してしまいます。この穴堰は、新渡戸十次郎の「幻の穴堰」と呼ばれています。その後、1871年(明治4年)に新渡戸傳が死去し、管理者がいなくなった稲生川は荒廃していったとされています。

左) 新渡戸十次郎  右) 新渡戸傳

明治天皇の三本木来訪

1872年(明治5年)、明治政府は天皇の存在と権威を示すことを目的に全国巡業を行います。その中で、三本木 (現在の十和田市)に来訪され、荒れ果てた稲生川を見て「先祖の偉業を継承しなさい」といい、それを聞いた上北郡長であった藤田重明氏らが、感銘を受け三本木原開拓を継ぐ事となります。その後、1884年(明治17年)、上北郡長であった藤田重明氏と初代三本木戸長・中島庄司が中心となり、三本木共立開墾会社が設立されます。株券は「開墾に成功すればその土地の払い下げをする」という条件付きの株券でした。株主は幕末の開拓ゆかりの在地商人や旧七戸藩士、給人、旧斗南藩士などでしたが、その後は株式がなかなか集まらず、1888年(明治21年)には取引銀行の不祥事もあり早くも経営難に陥いります。

渋沢農場 と 十和田市

三本木共立開墾会社の窮地を救ったのが、渋沢栄一でした。渋沢栄一は、多くの株を引き受けて1890年(明治23年)「渋沢農場」を開設します。渋沢農場は、今の十和田市前谷地に事務所を置き、稲吉、北平、西は深持の渋沢田、東方は、太平洋までの広大な土地で開かれ、稲吉地区には、現在の福島県伊達市等からの入植者が自治を形成し、農業林業牧畜業経営を進めます。渋沢栄一は、新渡戸傳の大事業を継承する事となります。

渋沢農場跡記念碑
前谷地公園にある渋沢農場記念碑

水利権の争い

開墾会社はこうした援助を受けて開拓地の復興や水路の延長を行い、1894年(明治27年)には株式会社組織を変え事業を拡大、大規模な補修工事を行い、法量の取水口から太平洋沿岸までと10の支線が1906年(明治39年)ごろまでに完成します。

しかし、共立開墾株式会社が行った稲生川の延長と補修によって開墾地拡大は進んだものの、同時に稲生川上流の古くからの地主たちと、下流に耕地拡大を目指す開墾会社との間に熾烈な水利権紛争を引き起こす結果となります。

1918年(大正7年)、元村(現在の十和田市元町)に土地を持つ地主たちが、開墾会社に無断で稲生川に分水口を作り新規開田するという事が起き、水使用料の支払いを求める会社側と、新渡戸傳の開いた稲生川の水は公共の物として支払いを拒否する地主側とが裁判で争う事となります。

しかし、この争いは裁判でも決着を見ることができず、町を二分して町政も滞る事態に至ります。この状況を解決に導いたのが、渋沢栄一でした。

開墾会社の大株主だった渋沢栄一へ、争いに疲れた両派は仲裁を依頼し、渋沢農場顧問の東京大学農学部 原 煕 教授と、のちに渋沢農場第5代農場長となり三本木原開拓国営事業化実現に尽力した水野陳好氏が調査助手として協定案をまとめ、1892年(大正11年)、稲生川普通水利組合稲生耕地整理組合組織会が設立、水利組合が3万5千円を開拓会社へ支払うこととします。そして開墾会社はこの2つの組織に役目を譲り解散し、これにより4年に渡る紛争に終止符を打つ事となります。

恩恵をもたらした渋沢農場

渋沢農場は、単なる民間の一農場にとどまらず、周辺地区において技術面、経営面などで指導的な立場にありました。渋沢農場の所有地も現在の十和田市六戸町おいらせ町の広域に渡って散在し、産業組合貯蔵組合を作り、幾度かの冷害凶作を乗り越えて今日の立派な農村を建設していき、その後は、戦後の農地改革と緊急開拓地としての国の買収により役目を終える事となります。

三本木平及び渋沢農場の図
前谷地公園にある三本木平及び渋沢農場の図

先人たちの想いをつなぐ

渋沢農場第5代農場長であった水野陳好はその後、新渡戸傳の夢を引き継ぎ、国営開墾三本木原大規模開墾期成会を組織し国への陳情を続け、1937年(昭和12年)に国会で予算が通過、1943年(昭和18年)に国営2本目の稲生川が完成し、新渡戸傳からスタートした三本木原開拓は実を結ぶ形となります。

十和田市名誉市民 水野陳好氏 顕彰碑
十和田市役所前にある 水野陳好

このように、三本木原開拓に貢献した先人たちの活躍。

渋沢栄一三本木原開拓に手を差し伸べなければ開拓事業は失敗していたかもしれません。

「開祖 新渡戸傳扇 の意思を継ぐ」

地域をつなぐ人間愛。

人間をつなぐ地域愛。

先人からつないだ想いが、今の十和田市の街並みを築いています。