北里大学 獣医学部 設立と 十和田市 の関わりについて

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北里研究所三本木支所 設立がはじまり

現在の青森県十和田市には、その昔、北里研究所三本木支所が存在しました。

【北里研究所三本木支所 : 1947年(昭和22年)12月開所 ~ 1963年(昭和38年)2月閉所】

北里研究所は、1914年(大正3年)に、ペスト菌の発見や破傷風菌の純粋培養の成功に続く破傷風免疫抗体と血清療法の発見により、近代医学上の重要な基礎を築いた北里柴三郎博士によって日本初の民間医科学研究所として設立されました。

1945年(昭和20年)8月の第2次世界大戦終戦以降、戦時中の慢性的な栄養失調や食料事情の悪化、居住環境の悪化に追い討ちをかけ国民の健康状態は悪く、心身ともに消耗し、あらゆる疾病に対して抵抗を失っていました。

1946年(昭和21年)夏ごろに赤痢が流行し、東北のある地方では、短期間のうちに多くの人々が伝染病によって死亡しました。当時は、戦災で製薬工場の多くが破壊され、原材料にも乏しく、薬剤が生産できないため、疾病の予防も極めて困難な状態でした。日本政府と占拠軍総司令部(GHQ)にとって流行病の予防および治療の手段を用意することが緊急の課題でした。

1946年(昭和22年)、GHQは実績ある北里研究所に予防・治療用ワクチン・血清などの製造を要請しましたが、戦災で適地のはずだった目黒支所は使用できず、東京では血清製造が困難な事から、他の場所での適地を求めました。GHQは日本政府へ全国に適地を求める要請を行い、厚生省を通して旧軍馬補充部跡地三本木原(三本木町)が候補として挙がりました。

1947年(昭和23年)10月、現地調査が行われ、青森県上北郡三本木町は大量の血清を製造するには適当な場所であると判断され、現在の十和田市立北園小学校を含む市街地の北西部、国道102号線の沿線北側が敷地となる決定がありました。

1947年(昭和23年)12月、北里研究所三本木支所は開所し、事業を開始。三本木畜産組合から免疫馬を購入しジフテリア免疫血清の製造を開始しました。その後15年間に渡り、運営されてきましたが、戦災の復興とともに伝染病が減り、抗毒素の需要が減ってきたために、動物使用関係施設は、北里研究所附属柏家家畜衛生研究所(千葉県柏市)に統合されました。

その為、1963年(昭和38年)2月、北里研究所三本木支所は全面閉鎖され、以後、北里大学設立計画が具体化していきました。

北里大学獣医学部【1966年(昭和41年)4月設立】

三本木町は、軍馬補充部、青森県農学校(現在の青森県立三本木農業高等学校)獣医学部、北里研究所の免疫馬と、馬の鞍に乗って発展を遂げてきました。その後、前述で挙げたように、北里研究所三本木支所の事業開始後、15年で閉鎖されます。

その間、1953年(昭和28年)の町村合併促進法施行に伴い、三本木町は,1956年(昭和31年)に、大深内村藤坂村と合併し、三本木市となり、その後、四和村とも合併し、十和田市が誕生します。

北里研究所三本木支所閉鎖が決まった後、十和田市長および市議会議員代表の方々が、研究所を来訪し、十和田市へ獣医学部を中心とする大学設置を正式に要請され検討に入ります。

1962年12月からの数年にかけ、当時の十和田市長、小山田七次郎氏をはじめとする十和田市は、熱心な誘致活動を展開し、北里大学設置認可に向け尽力を傾けます。

様々な困難があったようでしたが、実を結び、1966年(昭和41年)4月、北里大学は開校されました。

開校した時の入学生数は121名で、青森県出身者が最も多く、その中には、現在の十和田市長である小山田久氏や十和田ガーリックポークの生産で有名な有限会社みのる養豚 中野渡稔氏など、現在の十和田市の畜産を支えてきた方々が多く入学されています。

北里大学は、1966年(昭和41年)、北里大学畜産学部設立以降、1970年(昭和45年)、大学院畜産学研究科(修士過程)増設、1972年(昭和47年)、同博士過程を増設。1978年(昭和53年)4月、獣医学教育6年制が発足し畜産学部を獣医畜産学部に名称変更し、1981年(昭和56年)、畜産土木工学科を増設、2008年(平成19年)、獣医畜産学部を獣医学部に名称を変更などし、現在に至っています。

北里大学 獣医学部 十和田キャンパス

住所 : 〒034-0021 青森県十和田市東二十三番町35−1

TEL : 0176-23-4371

HP : https://www.kitasato-u.ac.jp/vmas/index.html