十和田湖との出会い
大町桂月(おおまち けいげつ)(1869年~1925年)は、高知県土佐市(旧・高知市)出身で、明治から大正にかけて活躍した作家です。
本名は大町芳衛(おおまち よしえ)で、「桂月」という雅号は、郷里・高知県の桂浜に昇る月にちなんで名付けられました。生涯を通じて旅と酒をこよなく愛し、「酒仙」「山水開眼の士」とも称されました。
東京帝国大学(現在の東京大学)の文学部に在学中から、武嶋羽衣(たけしま はごろも)や塩井雨江(しおい うこう)らとともに「赤門派」を結成し、文芸評論や時事論説、美文など幅広い文筆活動を展開しました。しかし、健康を害したことをきっかけに、自然を題材とした紀行文学へと活動の重心を移していきました。
1908年(明治41年)8月、青森県五戸町出身で雑誌『太陽』の編集長だった鳥谷部春汀(とりやべ しゅんてい)に「十和田湖という素晴らしい景色の場所がある。一度訪れてほしい」と誘われたことをきっかけに、桂月は初めて十和田湖を訪れました。画家・平福百穂(ひらふく ひゃくすい)らとともに、約18日間にわたり、十和田湖・奥入瀬渓流・八甲田山を巡り歩き、その体験をもとに執筆した紀行文『奥羽一周記』を雑誌『太陽』に発表。これにより、十和田湖と奥入瀬渓流の美しさが全国に知られるようになりました。
蔦温泉との出会い
この旅の中で蔦温泉にも立ち寄っており、後に大きな縁が生まれることになります。
その後も桂月は、大正10年(1921年)、大正11年(1922年)、大正14年(1925年)とたびたび十和田を訪れました。晩年は蔦温泉に居を構え、毎日のように奥入瀬渓流を歩き、子ノ口までの約14kmを樹木のトンネルの中、ひたすら歩き続けたといわれています。この経験をもとに、桂月は「住まば日の本(ひのもと)、遊ばば十和田、歩けや奥入瀬三里半」と詠んで、その美しさを称えました。
1922年(大正11年)11月には、北海道からの帰り道に、「八甲田の仙人」と呼ばれた山の案内人・鹿内仙人(しかない せんにん)の導きで雪の八甲田山を越え、蔦温泉に宿泊しました。翌1923年(大正12年)10月中旬からは蔦温泉にこもり、恩師・天合道士の伝記『杉浦重剛伝』の編集に取り組みました。さらに1924年(大正13年)の冬にも再び蔦温泉で冬ごもりを行い、その体験をもとに『蔦温泉帖』や『冬篭り帖』を著しました。
十和田湖の魅力を全国に伝えたその生涯
この頃、前青森県知事・武田千代三郎が設立した、十和田湖と周辺自然の保護・紹介と観光振興を両立させた先駆的な組織「十和田保勝会」の活動が盛んになり、十和田湖を国立公園に指定しようという機運が高まっていました。これを受けて桂月は、1923年(大正12年)に「十和田湖を中心に国立公園を設置する請願文」を起草し、政府関係者にも大きな反響を与えました。この文書は国立公園指定に向けた気運をさらに高めるきっかけとなります。
1925年(大正14年)5月、桂月は「十和田国立公園期成会趣旨書」を執筆し、十和田湖の自然保護と観光振興に尽力しましたが、そのわずか1か月後の6月10日、蔦温泉にて亡くなりました。亡くなる直前には本籍もこの地に移しており、十和田の自然に深く魅了され、その保護と発信に生涯を捧げた人物でした。
乙女の像と桂月が遺した十和田と高知の絆
桂月の死から11年後の昭和11年(1936年)2月1日に十和田湖は国立公園に指定され、この実現には桂月の尽力が大きく寄与したことから、武田千代三郎知事、小笠原耕一村長とともに「十和田開発の三功労者」のひとりとして称えられ、昭和28年(1953年)10月には国立公園指定15周年を記念して、その功績を讃える顕彰碑「乙女の像」が十和田湖畔・休屋(やすみや)に建立されました。
また、こうした桂月の足跡を縁として、彼の出身地である高知県土佐市と、晩年を過ごした青森県十和田市は、友好姉妹都市の関係を結んでいます。両市は、自然と文化をつなぐ桂月の精神を今も大切に受け継いでいます。