十和田かるた 1977 (昭和52年発行)
赤沼の森に備中の墓 | 新山神社
備中の墓 赤沼備中は新山神社を勧請し、寺を建て庶民を教化した。 備中の妻は下山の畠山家の出で美人であった。 厩役人備中は、土地の境界について近習頭奥瀬安芸と事を争ったが、藩主晴政公に曲として退けられた
稲作のメッカ藤坂支場 | 藤坂試験支場
藤坂試験支場 冷害・凶作の起こりやすい南部地帯 の稲作安定を目指し、 昭和10年、旧藤坂村相坂に農林省指定の冷害防止試験地として青森県農業試験場藤坂支場が 誕生し、稲の品種改良が始まった。第 2次大戦
栄光で綴る三農相撲 | 青森県立三本木農業高等学校
三農相撲 三本木農業高等学校相撲部は大正時代の末頃つくられ、これまで各種の全国大会に県代表として数多く出場した。選手権大会(インターハイ)団体優勝 1回、準優勝4回を含めて、全国大会だけでも団体優勝8
開拓の祖新渡戸伝翁 | 太素塚
新渡戸伝翁 新渡戸伝翁は盛岡藩士。 勘定奉行ののち、安政2年(1855)63才の時三本木開拓に着手した。 奥入瀬川の上流、法量から水を取り入れ、苦心の末、トンネル2か所と、人工の「稲生川」を掘り通し、
区画整然碁盤の目 | 十和田市街地
区画整然 現在の市街地の道路を、碁盤の目のように整然と区画することを計画したのは、開祖である新渡戸伝翁の長男十次郎である。おおよそ100年前のことであった。その後、時の為政者が先人の計画を受継ぎ、さら
国宝のヨロイは中渡八幡 | 中渡八幡宮
中渡八幡 中渡八幡宮は、南部家総鎮守一之宮櫛引八幡宮の本宮として知られている。南部三郎光行 (南部家始祖)が父祖伝来の地・甲斐巨摩郡南部郷 (現在の山梨県)にあった八幡大明神を、建久2年 (1191)
七五三参りは稲荷さま | 三本木稲荷神社
三本木稲荷神社 新渡戸伝翁・十次郎・七郎の苦心による稲生川上水完成後 「稲の守護神」 として新しく建立した。祭神は主神倉稲魂命(うがのみたまのみこと)。 慶応元年(1865) 5月十次郎により「おみこ
すばらしきかな官庁街 | 十和田市官庁街通り
官庁街 昭和23年三本木町時代に本多町長が、それぞれの官公庁ごとに国有地の払い下げを個別に受けた。市役所現庁舎は、市のシンボルとして昭和40年11月に建築された。 官庁街道路は長い年月をか け舗装整備
千才森にキツネの伝説 | 千歳森稲荷神社
千歳森の狐 広々とした三本木原野には、狐しかすまなかったと伝えられている。その中で最も勢力のあった「千歳森のおせん」は、他の親玉格の狐達と共に、時には三本木平を大海原に変え、時には大名行列に化けて、通
惣辺牧野にベコの群れ | 惣辺牧場
惣辺牧野 明治18年(1885年)頃、惣辺牧野組合が国有林一帯995haを借り受け、牛馬の放牧に供したのが始まりである。昭和41年(1966年)、市営牧野として管理し、昭和48年(1973年)、49(
太素を祭る春まつり | 太素祭
太素祭 荒瀑たる三本木原に開拓の鍬を入れられたのが安政2年(1855年)。 幾多の困難を乗り越え、安政6年5月4日十和田湖を源水とする奥入瀬川から取水する稲生川を完成させた。この稲生川の上水を記念し、
畜産の父 小笠原八十美
小笠原八十美 十和田市は昭和10年頃から軍馬の産地として全国にも有名であり、数多くの優駿を生産し、国のため尽したものである。当時の畜産組合長は衆議院議員・小笠原八十美氏であった。現在は殆んど馬の姿が見
つつじ赤松市(マチ)の華
つつじ、 赤松 昔は市の山野は、いたるところ、つつじが咲き乱れて、のどかな風光を呈していた。その名残りは今でも検行平、切田の山中、四和ダムの周囲に見られる。特に昭和43年から高森山公園の整備が進み、全
十和田湖 ここから 二十キロ
十和田湖 – 全国有数の観光地である「十和田・ 八幡平国立公園」の中の十和田湖は、青森・秋田両県にまたがる典型的な二重式カルデラ湖である。十和田湖からただ一つ流れでる奥入瀬の溪流は、滝とな
ニジマスのふるさと 白上養魚場
白上養魚場 – 相坂養魚場のニジマスは、大正2年(1913年)、農商務省水産局を経由して、米国政府から譲り受けたものである。青森県に移入されたニジマス種卵は、カリフォルニア州ベイヤード孵化
念願かなって中部開発
中部開発 – 十和田市の北部 (中部上北地域)に広がる500haの畑作地帯は、生産性の低い雑穀を中心とした純畑作地帯で、農家の生活は苦しかった。中部上北の南部を東流する砂土路川は三本木原台
はんらん防いだ四和のダム
四和ダム – 十和田市最南部を東流する後藤川は、地域住民の命でもある。昔の人はこの川を「宝の川」と言っていた。しかし、この川は時には氾濫し、大洪水となり、生命、財産をも一瞬にして奪い去るこ
ひろいグラウンド体育施設 | 十和田市志道館
体育施設 – 体育施設といえば普通郊外にあるが、当市の施設は街の中央部に集中しており、その利用度は極めて高い。市民プール、陸上競技場は公認施設であり、中でも相撲場は毎年8月15日、全国選抜
平和の使い 苫米地義三
苫米地義三 – 第2次大戦後、連合国の占領管理下にあった日本は、昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結し、独立と平和を確立した。その時、自由党総裁 吉田総理と共に
真登地にのこる一里塚
真登地の一里塚は、十和田市街地から国道4号線を北に4km余りの所にあり「ニモリ」の俗称で親しまれている。規模は、地積 98.91㎡、高さは4mある。この一里塚は、昭和30年(1955年)代に一基を失っ
三木野が原を電車が走る | 十和田観光電鉄株式会社
電車は昭和26年(1951年)6月20日に電化され、十和田市から三沢市まで15kmを25分で運転している。電車開通当時の沿線は広々とした水田地帯であったが、年々住宅、 学校等が沿線に建ち並び、昔の面影
めざすは田園文化都市
田園文化都市 – 昭和46年(1971年)10月に市勢発展の基本構想を制定し、昭和60年(1985年)における発展の三本の柱の一つとして「田園文化学園都市」を掲げている。この理想の姿として
もっこかついでの矢神の穴堰
穴堰 – 三本木原開祖新渡戸伝翁が、稲生川掘削工事で最も苦心したのは穴堰(隧道) であった。 穴堰は鞍出山 (矢神)、 段の台山の2か所である。鉄槌と鑿を用いて掘った ずり (土) を、繩
ラケットで河野世界一
河野満選手 – 河野選手は1977年4月5日、英国のバーミングガムで行われた第34回世界卓球選手権大会男子シングルスで優勝し、その栄光を郷土にもたらした。河野選手が、父・功さんの指導でラケ
粒々辛苦 稲吉の人々
稲吉 – 明治31年(1898年)頃、福島県から40戸の農家が入殖し、稲吉部落を作った。明治35年(1902年)の大冷害のため収穫皆無、逃亡や、北海道に移住するなど、明治37年(1904年
ルート4は奥州街道 | 国道4号線
奥州街道 – 国道4号線は、元の奥州街道で、現在の東京、青森間を結ぶ国道である。昔は参勤交代の道でもあり、一里ごとに塚があった。十和田地区では真登地、伝法寺、池ノ平の3カ所に一里塚が残 っ
ロングロングのアーケード | 商店街
アーケード – 商店街はその街の「顔」と言われる。 昭和39年(1964年)5丁目に325m建設されたのが始まりで、その後6丁目へと連鎖的に建てられ1丁目から8丁目まで延2,000mと続き
世に知られたり三本木せり
三本木セリ – 明治18年(1885年)、陸軍軍馬育成所(軍馬補充部三本木支部) が設置され、民間から軍馬として買上げて以来、三本木地方は馬匹の生産地として軍馬、農耕馬、 役馬、競争馬等の
吾が街、緑と太陽いっぱい | 青森県十和田市
緑と太陽の街 – 当市は、はるか彼方に広がる緑の田園と全国に名高い防風林、さらに松並木などの緑の木々が茂っており、その空気の澄んだ生活環境は、他のまちに類のないほど優れている。また、56,
老いの楽しみ憩いの家
憩いの家 – お年寄りの方の健康管理やレクリエーションなどの場として昭和47年開設されたもので、建物の構造は木造二階建で和室、大広間、相談室、調理室、浴室、売店などがある。浴室は男女別で、