十和田かるた 1977 (昭和52年発行)

十和田かるた 1977

昭和52年9月15日発行

推せん団体

十和田市教育委員会

十和田商工会議所

企画・制作

十和田市観光協会

掲載内容は、昭和52年(1977年)当時の内容です。現在の状況と異なる場合があります。当時の情景がわかる歴史的資料としてご参考ください。

あ-赤沼の森に備中の墓-十和田かるた1977

赤沼の森に備中の墓 | 新山神社

備中の墓 赤沼備中は新山神社を勧請し、寺を建て庶民を教化した。 備中の妻は下山の畠山家の出で美人であった。 厩役人備中は、土地の境界について近習頭奥瀬安芸と事を争ったが、藩主晴政公に曲として退けられた

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う-梅集落のカヤ人形-十和田かるた1977

梅集落のカヤ人形

カヤ人形 梅集落は市街地中心から北西約12km の山あいのくぼ地に所在する12戸の農村である。ここの人形結いは、毎年旧歴 6月24日、各戸から男1人ずつがカヤとワラを持って集落の中心地に集まり、身長3

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お-奥入瀬川の鼻曲り鮭-十和田かるた1977

奥入瀬川の鼻曲り鮭

鼻曲り鮭 南部の鼻曲りで有名な鮭漁業で欠くことのできないのは奥入瀬川である。青森県内の河川に産卵のために遡上する鮭の約70%は奥入瀬川で漁獲されている。明治34年奥入瀬川に遡上する鮭の数が少なくなった

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か-開拓の祖 新渡戸伝翁-十和田かるた1977

開拓の祖新渡戸伝翁 | 太素塚

新渡戸伝翁 新渡戸伝翁は盛岡藩士。 勘定奉行ののち、安政2年(1855)63才の時三本木開拓に着手した。 奥入瀬川の上流、法量から水を取り入れ、苦心の末、トンネル2か所と、人工の「稲生川」を掘り通し、

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き-郷土芸能-駒踊り十和田かるた1977

郷土芸能 駒踊り

駒踊り 馬産地、十和田市を最も象徴する民俗芸能は南部駒踊りで、十和田市だけでも、洞内・立崎・米田・相坂・滝沢・上館と6団体がある。勇壮でリズミカルな演奏に合わせ、豪快に舞い踊るこの駒踊りは南部を代表す

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く-区画整然碁盤の目-説明-十和田かるた1977

区画整然碁盤の目 | 十和田市街地

区画整然 現在の市街地の道路を、碁盤の目のように整然と区画することを計画したのは、開祖である新渡戸伝翁の長男十次郎である。おおよそ100年前のことであった。その後、時の為政者が先人の計画を受継ぎ、さら

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け-県南初の北里大学-十和田かるた1977

県南初の北里大学

北里大学 北里大学畜産学部は、昭和41年4月 十和田市三本木に創立された。 42年には姉妹校衛生科学専門学院も併設され、現在学生総数千数百名を数え、その出身地は全国に渡っている。 名実ともに全国有数の

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さ-産馬通りは懐しや-十和田かるた1977

産馬通りは懐しや

産馬通り 三本木セリが始まると太素塚境内から現中央停留所までの両側に小屋掛けの茶店や衣類店、下駄屋等が建ち並び全国から集まった馬喰や流し三味線で 茶店は賑わい、 衣類店や下駄屋は正月の着物や下着または

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た-太素を祭る春まつり-十和田かるた1977

太素を祭る春まつり | 太素祭

太素祭 荒瀑たる三本木原に開拓の鍬を入れられたのが安政2年(1855年)。 幾多の困難を乗り越え、安政6年5月4日十和田湖を源水とする奥入瀬川から取水する稲生川を完成させた。この稲生川の上水を記念し、

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ち-畜産の父 小笠原八十美-十和田かるた1977

畜産の父 小笠原八十美

小笠原八十美 十和田市は昭和10年頃から軍馬の産地として全国にも有名であり、数多くの優駿を生産し、国のため尽したものである。当時の畜産組合長は衆議院議員・小笠原八十美氏であった。現在は殆んど馬の姿が見

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つ-つつじ赤松市(マチ)の華-十和田かるた1977

つつじ赤松市(マチ)の華

つつじ、 赤松 昔は市の山野は、いたるところ、つつじが咲き乱れて、のどかな風光を呈していた。その名残りは今でも検行平、切田の山中、四和ダムの周囲に見られる。特に昭和43年から高森山公園の整備が進み、全

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て-D51子供の夢-十和田かるた1977

D51子供の夢

D51 このD51は全国から姿を消した過熱式蒸気機関車で市では青少年の社会教育の教材とするため、市制施行20周年を記念して国鉄から借り、昭和50年(1975年)11 月10日に苦心の末設置した。昭和1

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と-十和田湖 ここから 二十キロ-十和田かるた1977

十和田湖 ここから 二十キロ

十和田湖 – 全国有数の観光地である「十和田・ 八幡平国立公園」の中の十和田湖は、青森・秋田両県にまたがる典型的な二重式カルデラ湖である。十和田湖からただ一つ流れでる奥入瀬の溪流は、滝とな

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な-流れ豊かな稲生川-十和田かるた1977

流れ豊かな稲生川

稲生川 – 安政2年(1855年)、新渡戸伝翁は三本木原開拓のため、稲生川開削の大事業に着手、十和田湖を源水とする奥入瀬川から上水するために2穴堰、4,160mを掘り抜き、陸堰は、矢神と三

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ぬ-沼に水蓮 梅泉園-十和田かるた1977

沼に水蓮 梅泉園

梅泉園 – 県下一といわれるこの梅林は、戦時中、南方の将兵たちに梅干しの輸送がとだえているということで、故・滝沢景吉さんが、昭和17年(1942年)に戦地にいる息子さんのために植えたもので

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ね-念願かなって中部開発-十和田かるた1977

念願かなって中部開発

中部開発 – 十和田市の北部 (中部上北地域)に広がる500haの畑作地帯は、生産性の低い雑穀を中心とした純畑作地帯で、農家の生活は苦しかった。中部上北の南部を東流する砂土路川は三本木原台

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の-農協米は3万トン-十和田かるた1977

農協米は3万トン

農協米 – 十和田市は新渡戸伝翁の開拓の偉業から始まり、多くの先人、先輩の努力によって、全国的に恵まれた田園都市として発展しつつある。特に米については、60万俵を超える生産実績を収め、我が

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は-はんらん防いだ四和のダム-十和田かるた1977

はんらん防いだ四和のダム

四和ダム – 十和田市最南部を東流する後藤川は、地域住民の命でもある。昔の人はこの川を「宝の川」と言っていた。しかし、この川は時には氾濫し、大洪水となり、生命、財産をも一瞬にして奪い去るこ

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ふ-ふり仰ぐ八甲田連峰-十和田かるた1977

ふり仰ぐ八甲田連峰

八甲田連峰 – 八甲田連峰は、八甲田大岳 (1584.6m) を主峰として、前岳、井戸岳、田茂范岳、赤倉岳、石倉岳、小岳、 高田大岳の8つの峰からなり、この外に硫黄岳、雛岳があり実際には十

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へ-平和の使い 苫米地義三-十和田かるた1977

平和の使い 苫米地義三

苫米地義三 – 第2次大戦後、連合国の占領管理下にあった日本は、昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結し、独立と平和を確立した。その時、自由党総裁 吉田総理と共に

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ほ-法身禅師の法蓮寺-十和田かるた1977

法身禅師の法蓮寺

法蓮寺 – 法身国師は鎌倉時代の人で、常陸国、真壁(現在の茨城県)の出身である。彼は宋に渡り、厳しい修業ののち名僧となり、帰国し国師になった臨済禅宗の傑僧で、松島の瑞厳寺の中興の祖として知

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ま-真登地にのこる一里塚-十和田かるた1977

真登地にのこる一里塚

真登地の一里塚は、十和田市街地から国道4号線を北に4km余りの所にあり「ニモリ」の俗称で親しまれている。規模は、地積 98.91㎡、高さは4mある。この一里塚は、昭和30年(1955年)代に一基を失っ

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む-昔をしのぶ松並木-十和田かるた1977

昔をしのぶ松並木

松並木 – 万延元年(1860年)、開拓状況を視察した盛岡南部40代藩主・利剛が、用水堰に稲生川、奥州街道に渡した橋を稲生橋、さらに新しくできた街を稲生町と命名し た。 その稲生町の開墾に

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め-めざすは田園文化都市-十和田かるた1977

めざすは田園文化都市

田園文化都市 – 昭和46年(1971年)10月に市勢発展の基本構想を制定し、昭和60年(1985年)における発展の三本の柱の一つとして「田園文化学園都市」を掲げている。この理想の姿として

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も-もっこかついでの矢神の穴堰-十和田かるた1977

もっこかついでの矢神の穴堰

穴堰 – 三本木原開祖新渡戸伝翁が、稲生川掘削工事で最も苦心したのは穴堰(隧道) であった。 穴堰は鞍出山 (矢神)、 段の台山の2か所である。鉄槌と鑿を用いて掘った ずり (土) を、繩

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ら-ラケットで河野世界一十和田かるた1977

ラケットで河野世界一

河野満選手 – 河野選手は1977年4月5日、英国のバーミングガムで行われた第34回世界卓球選手権大会男子シングルスで優勝し、その栄光を郷土にもたらした。河野選手が、父・功さんの指導でラケ

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り-粒々辛苦 稲吉の人々-十和田かるた1977

粒々辛苦 稲吉の人々

稲吉 – 明治31年(1898年)頃、福島県から40戸の農家が入殖し、稲吉部落を作った。明治35年(1902年)の大冷害のため収穫皆無、逃亡や、北海道に移住するなど、明治37年(1904年

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る-ルート4は奥州街道-十和田かるた1977

ルート4は奥州街道 | 国道4号線

奥州街道 – 国道4号線は、元の奥州街道で、現在の東京、青森間を結ぶ国道である。昔は参勤交代の道でもあり、一里ごとに塚があった。十和田地区では真登地、伝法寺、池ノ平の3カ所に一里塚が残 っ

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れ-歴史に名高い南部駒-十和田かるた1977

歴史に名高い南部駒

南部駒 – この地方は、元南部藩の領地で、平安朝末期から名馬の産地として知られている。歴史に名高い、佐々木四郎高綱の愛馬生唼、梶原源太景季の愛馬麿墨は隣村七戸、三戸産の名馬である。戦時中は

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や-野鳥の楽園 高森山-十和田かるた1977

野鳥の楽園 高森山

高森山は市の中心地から西方8kmの地点に位置し、標高231mの小高い山で ある。頂上に立つと市街地はもとより、東に小川原湖、太平洋、南に名久井岳、戸来岳、階上岳が望まれ、西北にあっては田代平から八甲田

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ゆ-雄壮華麗な切田神楽-十和田かるた1977

雄壮華麗な切田神楽

切田神楽 – 下切田は市街地から南方へ4 km、神秘の湖・十和田湖から流れ出る奥入瀬川を眼下に、遠く八甲田連峰を望む40 戸ほどの農村である。村落を形成している台地の先端に鎌倉時代に勧請し

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よ-世に知られたり三本木せり-十和田かるた1977

世に知られたり三本木せり

三本木セリ – 明治18年(1885年)、陸軍軍馬育成所(軍馬補充部三本木支部) が設置され、民間から軍馬として買上げて以来、三本木地方は馬匹の生産地として軍馬、農耕馬、 役馬、競争馬等の

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を-老いの楽しみ憩いの家-十和田かるた1977

老いの楽しみ憩いの家

憩いの家 – お年寄りの方の健康管理やレクリエーションなどの場として昭和47年開設されたもので、建物の構造は木造二階建で和室、大広間、相談室、調理室、浴室、売店などがある。浴室は男女別で、

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