十和田かるた 1977
備中の墓
赤沼備中は新山神社を勧請し、寺を建て庶民を教化した。 備中の妻は下山の畠山家の出で美人であった。 厩役人備中は、土地の境界について近習頭奥瀬安芸と事を争ったが、藩主晴政公に曲として退けられたため、天文8 年(1539年)6 月14日の強風下に三戸城に放火し、諏訪平で下斗米昌家に討たれたという。赤沼部落の人々は、今もなお、その徳を慕いその祭を続けている。
掲載内容は、昭和52年(1977年)当時の内容です。
現在の状況と異なる場合があります。
当時の情景がわかる歴史的資料としてご参考ください。